聖 書 マタイによる福音書 6章7節~13節

7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

金 言 
「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)
 森の中に入って深呼吸すると、何とも言えない良い香りでさわやかですがすがしい気分になります。新鮮で良質な空気を吸って、身体にいっぱい取り入れることは人の健康に役立ちます。
 身体に呼吸が欠かせないように、お祈りはクリスチャンにとって魂の呼吸といわれ信仰生活に欠くことはできません。あるとき、弟子たちがイエスさまに「私たちに祈りを教えてください」とお願いします。イエスさまはまずお祈りの姿勢や態度について教えられました。
 第一にお祈りは「人に見られるためのものではない」ということです。人前で祈るとき、どうしても人の目を意識します。ですが、本来祈りは人に聞かせるのではなく、神に聴いていただくものです。
 第二にイエスさまは「一人になって祈れ」と言われました。みんなの前で祈りができるようになるということは、信仰者として一人前ですが、本当の信仰を確立するためには、一人で祈ることができているかどうかということです。
 第三には「神さまに信頼して祈ること」です。イエスさまは『くどくど祈るな』と言われました。これは意味のないことばをお題目のようにとなえるなということです。
1.天にましますわれらの父よ
 主の祈りの最初は「天にましますわれらの父よ」です。神さまは天にいます聖なるお方です。祈るときにイエスさまは神さまを「アバ(父ちゃん)」と親しみを込めて呼ばれました。
それはイエスさまは天から降られた神の子だから正しい呼びかけです。しかし人は違います。生まれながらの罪人である人はサタンのもとにいる子でした。
罪のないイエスさまが十字架にかかられたと信じるとき、神さまは私たちの罪を赦され、私たちの戸籍はサタンから神さまに移されます。聖書はこれを養子縁組にたとえています。こうゆうわけで今やクリスチャンも神さまを父とお呼びすることができるのです。
神さまは父親がわが子の願いに聴き入るように私たちのつたない祈りを喜ばれます。
2.御名があがめられますように
 御名とは、神さまの名のことで神様ご自身です。神さまの本質と神性、権威と立場の全存在のことです。この祈りは神さまが世界の中心にいてくださいますようにという意味です。人間がどうであろうと、いついかなる場合にも、神さまは聖なるご存在として愛なるお方として変わりなく「そこに」いてくださるのです。
3.御国が来ますように
 「御国」英語の主の祈りではThe kingdom of God(=heaven)つまり御国とは天国のことです。イエスさまは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17:20-21)と言われました。つまり地上に見られる神の国は、キリスト者の心に根付く神の義、平和、聖霊における喜びなのです。私たちの心に神の国ができあがるとき心配、悩み、不安、誘惑などの外敵から揺るがせられることがありません。私たちは自分の心の中に「神の国」が実現しますように、と祈る必要があります。
4.みこころがなりますように
 御心とは人間を祝福するという神さまのご計画です。イエスさまは「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られました。十字架を目前にして血のような汗を流されて3度同じ祈りをされました。十字架にかかるというのは神さまから捨てられることです。イエスさまは私たちの救いのためにこう祈られました。そこには自己中心のかけらもなく、完全に父なる神のみこころに従いました。みこころを求める心には、私はそれに必ず従いますという意志と信仰の決断が伴います。私たちも自我に死んで神さまに従ったときに、みこころがどこにあるかが判り、神さまからの祝福を十分に受けることができます。