聖 書 ルカによる福音書22章39~42節

39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

金 言
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 (ルカ22:42)
1.いつものように、いつもの場所で 39-40節
 主イエスは祈りの人でした。いつものように(39)、いつもの場所(40)で御父との常に対話をしながら神のわざを行いました。信仰者は祈れる時に祈れば良いのではありません。祈る必要のある時だけは祈るのでもいけません。一日の中でこの時間は祈るために(神と対話)使う祈りの時間を聖別するべきです。祈るためもうけた時間に他の用事を優先させてはいけません。神に待ちぼうけを食わせてはいけないからです。一人になれて落ち着く場所を神と自分がお出会いする場として決めます。ジョン・ウェスレーの母スザンナは敬虔な信仰の持ち主でした。彼女は19人の子どもの世話に明け暮れていました。彼女の祈りの場は身に着けたエプロンでした。子供たちは母親がエプロンで顔を覆って祈り出すと母に面倒をかけてはいけないことをよく知っていました。
2.誘惑(試練)に打ち勝たせる祈り 40,46節
 主イエスは今日の箇所で2回、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言呼びかけられた(40、46)。誘惑(ペイラスモス)という語は「試練」という意味もあるので、この場合も2通りの解釈ができます。主イエスはこののちに弟子たちを襲う試練に打ち勝つことができるように、また逆境のなかで悪に屈する誘惑から救い出されるように、祈ることで神から力と知恵を授かってペイラスモスを乗り越えるように命じたのかもしれません。残念ながら弟子たちは、祈ることをしないで悲しみのはて寝入ってしまいます。祈りは弱者のつぶやきではありません。それはサタンがけしかける試練や誘惑という霊的な戦いで勝利させる最強の武具です(エペソ6:18)。神を本気で信じて神にのみ頼る者に有効に働きます。霊的戦いでサタンを一撃して退散させることができるほどの威力を発揮するのは御霊の剣すなわち神の言だけです(同17、マタイ4:1~11)。
3.苦杯を否む嘆願の祈り 42節
 多くのキリスト者は生涯のうち一度ならず「この杯を私から取りのけてください。」という思いに苛まれてこのように祈りたくなる経験をされることと思います。たとえば生死にかかわる家族の危機、不治の病の宣告、その他にも思いも寄らない試みの苦杯を飲み干さなければならない状況に陥った時、忠実に神に従ってきた信仰者であっても、苦難を受け入れる前に思わずこのように祈りたくなります。主イエスでさえ、ゲッセマネでこう祈られたことが、どんなにか私たちを慰め、気落ちする心を力づけるでしょう。このとき御使が天からあらわれてイエスを力づけた(43)とあります。私たちが嘆き祈るときにはイエスの御霊が私たちを支えてくださいます。神は私たちの「何故ですか」という試みのわけを尋ねても沈黙されるかもしれません。けれども信仰者は万事を益とする神をどこまでも信頼して従って耐え忍ぶときに、後になって試み(誘惑)の意味を解する時が訪れるのです。その時メラの苦い水は甘美な恵みの水に変わります(出15:23~25)。
4.みこころを求める祈り 42節
 「この杯を私から取りのけてください。」という祈りは主イエスの切なる願いでした。杯は十字架の死を指しています。キリストの祈りは自分の願いに終わらないでさらに優った大いなる祈りをささげられました。それが「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」という祈りでした。この杯を取りのけないことが父なる神のみこころならば、主イエスは全き従順をもって従うおつもりでした。主イエスはこのとき苦しみもだえて、ますます切に祈られました。つまり主イエスはみこころを確信するために何度も祈られたのです。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(ヘブル5:7)。ついに祈り終えたとき心は定まりました。主イエスは十字架上で御父からも見捨てられ、肉体が受ける非情な苦しみと恥を忍び耐える過酷な道を選ばれました。罪ある人間を憐れんで愛し通されたからこそ私たちを罪から救うために、ご自分のいのちを捨てることで神のみこころに完全に従う決意されたのです。ゲッセマネで主イエスは悲しみで死ぬほどに悩みながら祈り抜かれた末、みこころに従い十字架という苦杯を飲み干されました。私たちもはじめは自分の願いを訴えても、最後には「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」という一切を御手に委ねた祈りで閉じたい。信仰とは何よりも神への服従であると三浦綾子氏は書いています。「死に至るまで従順であれ。」(黙示録2:10)。