聖 書  第一コリント1章18~25節
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

金  言
主は、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」            (Ⅰコリント1:21)

 聖書が書かれた紀元1世紀でも、二千年を経た21世紀の現代であっても、依然として「十字架のことばは、…愚かなもの」です。福音すなわち神の子イエス・キリストが私たちを救うために死んでくださったという出来事は、多くの人にとって信じがたい話しに聞こえます。そもそもこの手紙を書いたパウロ自身ですら最初はイエスがメシヤ(救い主)であるとは信じようとしないで、クリスチャンを迫害していたほどでした。

1.人は自分の知恵で神を知ろうとした

あなたが人に「あなたは神を信じますか」と聞いたら何人かは「自分は無神論者だから」と言うでしょう。また日本は汎神論(すべてのものに神が宿っているとして、森羅万象の全体が神であると考え)の人や「キリストだけが神ではない」という多神教を擁護する人も多いでしょう。それは新しい考えではありません。紀元一世紀を生きた人も同様に考えた人がいました。使徒行伝の記事では、パウロはギリシャに行ったとき、そこで出会ったユダヤ人や信心深い人、またギリシャ人の様々な派閥の哲学者たちと、熱心に神について議論を戦わせました。しかしギリシャ人は福音を信じて唯一の真理に耳を傾ける者は少なく、もっぱら人間が考えた新しい論理としてパウロの話を聞きます(使徒17:19~21)。現代でも人は神のご意志をはねのけて、自分の知恵や研究でなんとか神を知ろうとします。しかし、キリスト教は啓示(人の力では知りえないことを神が教え示すこと)の宗教です。神が「造ったあなた」を知っておられるようには、「神に造られた」あなたが神について知ろうとすることはたとえその人が一生をかけても到底出来ません(21)。アメリカにリー・ストロベルという神に懐疑的なジャーナリストがいました。彼は名門大学で法学修士号を取った後、新聞記者として働き綿密な取材・調査活動に対して数々の賞を授与されました。このとき彼は、神はもはや時代遅れと確信していました。しかし彼は一大転機を経てクリスチャンとなります。今彼は聖書がいかに正しく神を啓示しているかを検証するベストセラーを数々書いています。

2.神は宣教と言う愚かな手段で人を救う

ある牧師が「私は新しく教会に来る人のために、できるだけ彼らのつまずきと考えられることを除こうと努力しました。それは初めて福音を聞く人にとって十字架はすでに大きなつまずきだからです。」と言われました。人は自分が得をする話なら喜んで聞く耳を持ちます。しかし福音は人が抵抗なく信じ受け入れ易い話でも、信じた人には御利益があると語る「耳触りの良い話」でもありません。それにもかかわらず神はご自分の最も大切な「宣教の務め」を、こともあろうに愚かで弱く罪や過ちをおかしやすい人間を通して、福音が全世界に広がることを願われたのです。神は宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救うことを選ばれました。神は私たちを愛し共に働くことを喜んでおられます(Ⅰコリ3:9)。神を知るには人の知恵や理性だけでなく信仰が必要です。そして信仰は神のことばを聞くことから始まるからです(ローマ10:17)。ですからクリスチャンが福音を語ることは神から委ねられた最も重要かつ優先順位の高い務めなのです。

3.信じる者には神の知恵と力が内に働く

伝道したいと心で思っても、私は言葉が巧みではないし、福音をどのように話したらよいかわからないという声を聞きます。意外にも聖書に出てくるたくさんの伝道者は口下手の人が多かったのです。神様がモーセをエジプトの奴隷からイスラエルの民を開放するためのリーダーとして指名されたとき、モーセは「わたしは…言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」(出4:10)と断ろうとしました。ところが新約のステパノは「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。」(使7:22)と証しています。たとえ弁舌が立て板の水のように巧みでなくても、語る言葉が真実であれば聞く人を神の力が引きつけます。またエレミヤが神に召されたとき彼は「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。と訴えると、神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない」(エレ1:4~7)と語られました。私たちの側にはいつも神がおられるから、信じる者には神の知恵と力が働くのです。宣教に必要なものは巧みなことばではなく、神から託された務めという使命感や責任感を持って語ることです。伝道する人は魂を愛する情熱と真実な信仰を持っている人です。大切なことは伝えた結果を心配しないことです。相手がそのとき信じなくてもすべてを神に委ねて神を信頼して待つことです。