聖 書 使徒行伝16章25~34節
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。
16:26 ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。
16:27 獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。
16:28 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。
16:29 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
16:30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。
16:31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
16:32 それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。
16:33 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、
16:34 さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。

金  言 「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。(使徒16:31)

 

あなたは歌うことは好きですか。日本が発信したKARAOKE文化は今や世界中の人をとりこにしています。人は心が嬉しいとき、気分の良いときやリラックスしているとき、ごく自然に鼻歌が出てきて歌声が弾みます。一方試練に襲われたとき、緊張しているときや不安で落ち着かない心境にある場合に、あなたは歌を口ずさむことができますか。

1.祈りと賛美の声は絶やすことなく
 パウロとシラスは第二次宣教旅行でマケドニア地方第一の都市ピリピに到着します。ピリピにはシナゴークはありませんでしたから、ある安息日に二人は川のほとりにある祈り場で福音を語ると、神を敬うルデヤという婦人が救いを受け入れて、彼女の家族もバプテスマを受けます。しかしある事件をきっかけにして二人は町の有力者から逆恨みされて町の秩序や平和を乱す者として訴えられてしまいます。二人は捕えられてむちで打たれた末に、厳重な見張りがついた牢屋の奥の部屋に放り込まれてしまいます。しかも逃走しないように、二人の足には頑丈な足かせがかけられてしまいます。日中に救いの喜びに立ち会ったことはつかの間となり、真夜中には冷え冷えとした牢獄に閉じ込められて明日をも知れぬ身となってしまいます。彼らは突如絶望の淵に立たされたのです。この夜のパウロとシラスの表情は暗く落ち込んでいたでしょうか。驚くことに彼らは夜通し神に祈りをささげ、賛美の歌声は絶えることがありませんでした。他の牢屋に入っていた囚人たちもやみの中に響く神をたたえる歌声に聞きほれていました。

 私は賛美歌『歌いつつ歩まん』の2番の歌詞「恐れは変わりて祈りとなり 嘆きは変わりて歌となりぬ」が好きです。私たちは状況が厳しくて辛くても、うなだれて神を見失うのではなく、そんなときこそ信仰を抱いて祈りと賛美の声を高らかに響かせたい。

2.人は救われるために何をすべきか
 そののち深夜突然に大地震が牢獄を襲います。この衝撃で牢獄の戸がすべて開いてしまい、囚人をつないでいた鎖はすべて解けてしまうという大事件が起きます。地震のゆれで目をさました牢屋番は、牢屋の戸がすべて開いてしまったことを知って絶望します。彼はもはや囚人たちは一人残らず脱走したと思い込んで、責任を取って剣を抜いて自殺しかけます。間一髪のところをパウロは大声でそれを止めます。信じがたいことですが囚人はだれひとりとして逃げだした者がいませんでした。囚人たちはパウロとシラスが深夜に祈る言葉に胸を突かれて自らの罪深さを自覚したのかもしれません。また賛美の声を聞きいっているうちに圧倒的な神の臨在を感じて、地震によって牢屋が開いても逃げませんでした。牢屋番はあかりを照らしてその事実に驚愕します。彼はこの奇跡の出来事におそれおののき、それまで手荒に扱っていたパウロとシラスに対して一転ひれ伏します。そして牢屋番は二人に「私が救われるためには何をすべきでしょうか」と真剣に救いを求めます。実のところ、救われるために私たちがするべきことは、もう何もありません。なぜなら救いはすべてが二千年前に終わっているからです。救いはイエスさまが十字架によって100%完成されました。あとは私たちがこの驚くばかりの事実を感謝してそのまま受け取るだけなのです。だからパウロの答えはただ「主イエスを信じなさい。」というものでした。信仰とは神への単純で純粋な「信頼」です。

3.神は家族の救いを約束された
 救いは救い主を個人的に信頼することから始まりますが、この聖句は「そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。と続き、個人から始まった救いはやがては家族に及ぶことが約束されています。これは家族伝道に大いに励みになるみ言葉ではないでしょうか。パウロとシラスは家族のつながりを大切にしたので、牢屋番とその家族全員に福音を語りました。こうして家族のひとりひとりがイエスさまを信じて救われバプテスマを受けました。聖書ではある場所で初めに救われた人のことを「初穂」と言います(ローマ16:5、Ⅰコリント16:15)。家族の中であなたが最初に救われたならあなたが初穂です。神さまにはあなたを初穂として選ばれた摂理があるはずです。と言うことは、神様は残りの家族全員がイエスさまの救いに導かれるように、あなたを家族より先に救ったことであなたを用いられるはずです。家族の最後のひとりが救われるまで、ノン・クリスチャンの家族の魂に重荷を持って祈りましょう。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。たとえ今は非現実的でもこの御言葉は私たちの家族に必ず成就すると信じることです。パウロとシラスはピリピで迫害を受けましたが、結果としてこの町でルデヤと牢屋番の二つの家族の全員が救われました。私たちも彼らのように神を信じる者になったことを心から共に喜びあえる家族になるのです(34)。