聖 書  ヨハネによる福音書4章20~30節
4:20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
4:27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
4:28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
4:30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

金  言 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。(ヨハネ4:24)

 皆さまは初めて教会の礼拝に出席した記念すべき日がいつだったか覚えていますか?そのときあなたは教会や礼拝に対してどんな印象を持ちましたか。私が初めての礼拝に出席した日は、1993年6月6日、初夏の聖日でした。

1.神はあなたをまことの礼拝に招く…礼拝する場所

私が初めて礼拝に行った日、その教会の礼拝堂の中は肌の色、国籍が違う大勢の人々で埋め尽くされていました。たくさんの人がそこにいましたがとても静かで、そこが聖なる時と場所であると感じました。会衆賛美が始まるとその静けさは一転して一斉に立ち上がると歌い始めました。歌声は礼拝堂の高い天井に鳴り響きます。その光景は二十年経った今も強烈な感動として私の記憶に残っています。それまでの私の人生は神のみ前に出るという意味イコール、神社仏閣に参拝することでしたから殊勝な感情はあっても、喜びや感動は感じませんでした。つまり身体は参拝していても自分が誰に向かって頭を垂れているのかわからずにいたのです。イエスさまがこの女性に言ったように、「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいる」(22)者でした。やがて教会でまことの神を礼拝するようになると聖書に目が開かれて、そのとき初めて正しい神観に立つことができました。すると私の造り主である神を礼拝することは当然の行為で、礼拝は「人間としての本分」であるとわかりました。
「この山」(20)にあるのは、サマリヤ人はエルサレム神殿に対抗してゲリジム山に神殿を建て礼拝を持っていました。この女性は礼拝をするのにふさわしい場所はどこなのかとイエスに問いかけます。イエスはご自分が来られたので、神を礼拝する特定の場所はもはや地上にはないと言われます。重要な事はどこで礼拝するかではありません。たとえ大きな美しい礼拝堂でなくても、家の教会でもまごころから神を礼拝することが大切です。まことの神を信じる人は日曜の朝、教会に行ったときだけでなく、毎日の生活の中で神のみ前に静まり祈るとき、その場所があなたの礼拝の場となるのです。

2.神を霊とまことをもって礼拝していますか…礼拝する態度

イエスは女性に、御父を礼拝は「神は霊であるから霊とまことをもって礼拝すべきである」(24)教えています。当時、ユダヤ人は礼拝を外面的な形式や儀式に引き下げてしまっていました。律法の文言に宗教的にこだわって、型通りの儀式を行えば、御父を礼拝していると思い込んでいました。彼らの礼拝は霊的な礼拝ではなくなっていました。顧みて私たちが礼拝する態度はどうでしょう。毎週の礼拝に向かう態度がいつの間にか儀礼的や形式主義に陥っていませんか。神第一の生活になっていますか。礼拝時間は守っていますか。人との約束に遅れてもすまないと思う心があるなら、神との約束はなおさらではないでしょうか。あなたは神を霊とまことをもって礼拝していますか?神は霊である、というのは神の本質的な定義です。神は目で見ることはできません。もし目に見えたらそれは神ではありません。それが神を宿すと人に言い伝えられた自然物であれ精緻に作った芸術的な像であれ、どれも人が神に仕立てた偶像にすぎません。また神は一つの場所に制限されることなく同時にあらゆるところに存在することがおできになり全知全能で人格を持たれるお方です。
では、霊とまことのある礼拝とは一言で言えばどんな礼拝ですか。霊である神は私たちたちが礼拝のかたちではなくまごころからささげる礼拝を喜ばれます。 神が求めておられるのは礼拝として制定された儀式ではなく、神のみ前に心底から悔い改め砕かれた魂なのです(詩51: 17)。

 3.救い主を知って他者を礼拝に招く者に変わる…礼拝による変化

 女性は目の前にいるイエスが待ち望んでいた救い主と知ると、水汲みに持ってきた大切な「水がめをそのままそこに置いて」(28)この良い知らせを真っ先に町の人々に知らせに行きました。彼女は自分が救い主に出会ったことをもし黙っていたら滅びてしまうであろう魂をほってはおけなかったのです。彼女の救霊愛の深さ強さにならう者に私たちもなりたいです。かつてこの女性は、人目を避けて暮らす身でした。そんな彼女が救い主と出会って一瞬にして心が変えられたのです。今や町の人々に呼びかけて「見にきてごらんなさい」(29)と誘うまでに喜びと自信に満ち溢れています。私たちが救い主を信じて救われるとき、次は他者を礼拝に招く者になることを神は切に願われています。とはいえ礼拝や集会に誘うのは勇気と知恵がいります。相手を見ると誘う前から二の足を踏んでしまい、一度断られると心が萎えてあきらめしまいます。ですが救いという神からの宝をひとりじめしないでください。「決して渇くことないいのちの水」がここにありますと疲れている人に知らせる労苦を惜しまない者にならせていただきましょう。人々は女性があまりに熱心なので、うながされてそくぞくとイエスのところに出かけて行きました。