金  言
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(ヨハネ8:12)

 イエス・キリストとは誰なのか?この問いに対する答えがヨハネによる福音書にあります。イエスが「わたしは…である。」とイエスがさまざまなかたちで自己開示をすることばが出てきます。ヨハネはイエス・キリストは確かに神の子であることを立証するために福音書を書きました(20:31)。先週の「わたしがいのちのパンである。」に続き、今日は「わたしは世の光である。」のみことばから、イエス・キリストが誰かを考えてみましょう。

1.父なる神は光

「闇サイト」「闇金融」悪をやみにたとえるなら、神は光であり善そのものなるお方です。はじめに神がこの天地を創造される前は、世界はやみのなかで混沌としていました。神が「光あれ」と言われるとやみと光が分かれたとあります(創1:1~5)。神が造られたものはすべてが完全で、それらすべてを見て「はなはだ良かった」と満足されました(31)。そして神は造られた完璧な世界にご自分のかたちに似せて造られた人間に、世界を治めさせようとされました。ところが最初の人アダムとその妻エバは、神の命令に背き罪を犯してしまうのです。それ以降のすべての人間は、心に罪というやみを持つ身となり、やみの世界をあてどなくさまよう者になりました。この人間の心に巣食う罪のやみの問題を完全に解決するために、神はご自身のひとり子であられるイエスを「世の光」として遣わされます。イエスは自らを「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。」(ヨハネ12:46)と証言しています。

2.世の光として来られたイエス

今日読まれた8章の前半は、姦淫の現場で捕まえられた女がイエスの前に連れてこられる話です。宗教指導者たちはこぞってイエスを訴える口実に彼女の犯した罪を利用しようと企みます。しかしイエスは神の叡智をもって彼らを退けます。こののちイエスは「わたしもあなたを罰しない。」と正しいさばきをされる権威をもって、彼女に罪の赦しを宣言します。イエスは世の光として父なる神によって天から遣わされて来られました。その目的は人々の罪を神のさばきという白日の下に晒すためではなく、あなたの罪を悟らせ、その罪を一つも残さず十字架によって取り除いて、あなたのやみにある人生を神の愛と憐れみという光で照らすために天からやって来られました。イエスは彼女に「今後はもう罪を犯さないように」と語りかけ、やみから光あふれる人生に導きます。イエスが「世の光」として来られた証拠は、続く9章で生まれつきの盲人が見えるようになる出来事でさらに明白になります(ヨハネ9:5)。

3.イエスはすべての人を照らすまことの光

 神に背を向けて罪に支配された人生はやみです。人は太陽に背を向けると自分の影がどこにいっても付きまといます。このように光である神に背くとき、人は自分の罪の影から逃れることはできません。しかし光に向き直って、太陽に向かって歩みだせば影はたちどころに消えます。イエスは世の光となられたのです。ですから「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつだろう」(12)と言われました。

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである(Ⅱコリント4:6)。あなたは日々イエスと向き合って暮らしていますか。みことばの光に照らされた道をイエスと共に歩んでいますか(詩篇119:105)。