聖 書  出エジプト記33章12~16節、ヨハネによる福音書14章1~3節
33:12 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。
33:13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
33:14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
33:15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
33:16 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。

14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

金  言 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。(出エジプト33:14)

 すべてのことには終わりがあります。時間を忘れておもしろい小説を読んだときや、映画が終わってエンディングテーマが流れるとき、この時間がもう少し長ければ良かったのにと少し残念に感じることがあります。だれの人生も終わりが必ずやってきます。愛する家族を失ったことのある人は、棺の脇にたたずみ人の終焉がどんなに辛く空しいかを身をもって知りました。今日は「聖徒の日」であり召天者のご家族と共にもつ礼拝です。死は人に絶望をもたらしますが、不思議なことに聖書には「主にあって死ぬ死人はさいわいである」(黙示録14:13)と言っています。日本では元来死は不浄なものとされ忌み嫌われるものです。聖書が死人はさいわいですと言う根拠はどこにあるでしょう。

1.あなたは聖徒ですか
 聖徒は立派な人を指して言う聖人君子、完全無欠な人とは違います。また仏教のように死んだら成仏して聖徒になるのでもありません。聖書辞典によれば、聖徒とはイエス・キリストの十字架の血によって罪がきよめられ、その血に免じて罪がないと見なされ、神の御用にために世から選び分かたれた「罪赦された罪人たち」とあります。新約において聖徒と訳されているギリシャ語のハギオイは「聖なる者」「きよめ分かれたれた者」という意味です。ですからイエス・キリストの贖いによって罪と死の律法から分離され聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民に加えられた者としてこの名が与えられています。従って問題の多い信仰生活を送っていたコリント教会の人もパウロは彼らを聖徒と呼びかけています(Ⅰコリント1:2)。なぜなら聖徒とは人格の優秀さや高潔さが基準ではなく神の選びと恵みを賜った者というという点にあり、私たちも召天者も主イエスを信じる者はみな聖徒なのです。ただし恵みによって主から聖徒とされた者は聖徒としてふさわしく生きることが求められています(エペソ5:3~4)。

2.聖徒の特権とはなんですか
 神はモーセが率いるイスラエルの民が荒野の旅で不平不満をこぼし不信仰に陥り、シナイ山の登ったきりで降りてこないモーセにしびれをきらして、兄のアロンをせきたてて金の子牛を鋳造してそれを拝みそのまわりで享楽します(出エジプト32章)。その様子を天からご覧になられたまことの神は、あなたがたはかたくなな民である。わたしはカナンへの旅の途上であなたがたを滅ぼすといけないから一緒にはいきませんとモーセに厳しい宣告を述べます(33:3)。この神の発言を恐れおののいたモーセは今日の箇所で神に訴え懇願します。モーセがここまで必至の形相で神に迫り求めることができた根拠は、自分たちは神のみ前に汚れたふさわしくないと思いながらも、わたしたちはかつて神が選んでくださった神の所有の民「聖徒」なのだという自覚が、モーセを粘り強く神に訴える者にさせました(12~13)。そしてついに神から「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。(14)という偉大な約束を賜ります。この後も民の不信仰と不従順は続きますが神は約束を守られ、出エジプト記の最後はこのようにしめくくられます。「すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。」(出40:38)

日本イエス・キリスト教団創立当初の標語は「我親(みずから)汝と共にゆくべし我汝をして安らかにならしめん」(33:14 文語訳)です。それはイエス・キリストを救い主として信じた者、すなわち神によって聖徒とされた者の特権とは、どんな試練の時もたとえ死の淵に立たされるような命の危機の時にも、神共にいまして平安を与えてくださるという「臨在」という信仰がわたしたちを支えるのです。

3.聖徒が集う天国は希望の光
 イエスは十字架にかかられる前の夜、これから起きる試練を予知して弟子たちに天国の話をして勇気づけました(ヨハネ14:2~3)。天国は今生きている人間の架空の場所ではなく、死を恐れる人のための気休めの話でもありません。目で見ることはできませんが、天国は現実です。天国に続く道をイエスは備えるために世に来られました。イエスは人間の罪を背負って十字架で身代わりの死の刑罰を受け、三日後に死からよみがえり人類の最大の敵である死に完全に勝利しました。だれでもキリストを信じるならば死はすべての終わりではなく、加齢による老いや疲れから解放されて自由にされる永遠の始まりです。地上で生きるときも天に帰っても「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがなく」(ヘブル13:8)、永遠に共におられます。イエス・キリストに信じるならあなたの未来は希望の光がどんなときにもみちあふれます。死の間際でさえも。