聖 書:ヘブル12章13節~16節、
(13)また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
(14)すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
(15)気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
(16)また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。ピリピ3章20~21節
(20)しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
(21)彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
A・テニスンの辞世の詩に「砂州を越えて」(Crossing Bar)があります。彼は1809年~1892年にヴィクトリア朝時代に活躍したイギリスの桂冠詩人です。日本にも多くの愛読者がいます。この詩は、川が砂州(Bar)を越えて大海に注ぐように(Crossing)、お互いの人生も様々なBar(障害物)を越えて、その彼方に行くことを美しい韻律で歌い上げています。最後に「砂州を越えた」時に、My Pilot(神)と出会うというキリスト者の希望が歌われています。
Ⅰ.生命の源泉
人間世界におけるすべての問題の原因は、生命に対する根源的な理解が欠落している所にあります。つまり正しい生命観が確立していないのです。聖書はその点をしっかりと教えています。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)、この言葉は聖書中の聖書と呼ばれています。神は創造のはじめ、「自分のかたちに人を創造された」(創1:27)、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創2:7)のです。このように聖書は私たちの生命の源は天地を創造された神ご自身であることを明確に教えているのです。
Ⅱ.天にある故郷を思う
ヘブル書11章にはアベル、エノク、アブラハム、イサク、ヤコブ、サラなど偉人たちの生涯が短く描かれています。13節では「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ」とまとめています。それでは彼らの信仰とはどのようなものっだったのでしょうか。一言で言えば「天にある故郷を思う」信仰でありました。聖書は「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道3:11)、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)、「地上では旅人であり、寄留者である」(13)と教えています。動物には帰巣本能がありますが、人間も決して例外ではありません。それは生まれ故郷や田舎であるかも知れません。しかし、私たちにとっての本当の故郷は、この地上にあるのではなく、天にある故郷なのです。神は私たちにその故郷を用意し、約束して下さっているのです。
Ⅲ.御国における希望
〈ふるさとの山にむかいていうことなし、ふるさとの山はありがたきかな〉 (啄木)。私たちの本当の故郷は「天にあるふるさと」です。御国には「死もなく悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙21:4)のです。御国には「水晶のように輝くいのちの水の川」(黙22:1)が流れています。教会は「小羊の婚姻の時」(黙19:7)にキリストの花嫁として花婿であるキリストに迎えられます.信仰を守り通したキリスト者には「義の冠(Ⅱテモテ44:8)・いのちの冠(ヤコブ1:12,黙2:10)・栄光の冠(Ⅰペテロ5:4)」が与えられます。「卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」(ピリピ3:21)のです。最も素晴らしい希望は「神が人と共に住み、人は神の民」(黙21:3)、つまり完全なる神人の合一です。 先に召天された親しい人々は今、このような希望に満ち溢れた日々を送っておられるのです。私たちも天にある故郷に思いを向けさせて頂きましょう。