聖 書  エレミヤ16章14~16節、マルコによる福音書1章16~20節
16:14 主は言われる、それゆえ、見よ、こののち『イスラエルの民をエジプトの地から導き出した主は生きておられる』とは言わないで、
16:15 『イスラエルの民を北の国と、そのすべて追いやられた国々から導き出した主は生きておられる』という日がくる。わたしが彼らを、その先祖に与えた彼らの地に導きかえすからである。
16:16 主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。

1:16 さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。
1:20 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。

金  言 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。(マルコ1:17)

今日は主の弟子となることについて学びます。日本ではいまや弟子になるというと落語か芸事か職人の世界でしか使われなくなりました。しかし聖書では弟子という言葉は生きています。イエスはすべてのクリスチャンに「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として」(マタイ28:19)と二千年このかた呼びかけておられます。

1.ごらんになり、お招きになる

マルコによる福音書によれば、イエスは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(1:15)と語られガリラヤで福音を宣べ伝えられ始めました。主の宣教では初めに何がなされたでしょう。それは弟子を造られることでした。イエスの宣教はエルサレムから遠く離れた辺境のガリラヤの海べで、漁に励むシモンやアンデレを慈しみを含んだまなざしでじっと見つめられたのです。こうしてその地で主の招きに応じた人たちが、弟子としてイエスの後に従うことで、神の国の実現への一歩が始まります。漁師たちの方で弟子入りを願ったのではありません。主から一方的に「わたしについてきなさい」と超然と彼らに呼びかけられたのです。しかし主の選びのまなざしと召しの呼びかけには、神の慈しみと神の国の王としての権威がありました。人はそれぞれ思いのままを過ごしています。ペテロたちは漁のために網を繕っているとそこにイエスが現れます。マタイは収税所に座って金勘定をしているとそこにイエスは現れます。サウロにいたってはクリスチャンを迫害するためにダマスコに乗り込もうとするとそこにイエスは現れます。今日、神の愛のまなざしはあなたに注がれてイエスはあなたを選ばれました。イエス自身も言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(ヨハネ15:16)

2.すぐに網を捨てて、イエスに従った

この箇所でガリラヤの四人の漁師たちは、イエスの招きにすぐに応じて何もかも捨てて従ったように見えます。しかし1章29~31節を読むと、ペテロは家を捨ててはいません。姑とも同居しています。ペテロがガリラヤにいる家族と離れてエルサレムを拠点に伝道活動に専念したのは主の復活後でした。しかし事の起こりはイエスの呼びかけに応じて、シモンと兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヤコブは網を捨てて、父や雇人たちを船に残したままで、後ろを振り返らずイエスに従ったときから始まります。彼らは召された時点では「人間をとる漁師」の意味を十分には理解していなかったでしょう。やがてイエスの苦難と復活後の栄光を理解することで弟子の役目を果たすようになります。その道程で弟子はイエスと一緒に悲しみと苦しみの道を歩まなければなりませんでした。それら犠牲の歩みのスタートはイエスの招きにすぐに応答して、網を捨て長年共に暮らした親しい人々や船と決別したときから始まりました。こうして福音宣教の道は、始め損失と思えることや犠牲を求められる気がしますが、やがて必ず栄光への道につながっています。いきなり大きな決断は出来なくても日常の小さな事からイエスに従って行きましょう。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」(ルカ16:10)とイエスは言われます。

3.わたしについてきなさい

初代の教会において主イエスに従うと言うことは切実な意味を持ちました。なぜならクリスチャンになることはユダヤ人にとってはユダヤ教をやめることであり、ついには自分の国籍を捨てるほどの覚悟が必要でした。パウロは「私たちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)と不退転の決意を表明しています。やがてキリスト教が広がって教会が世俗化するに連れて、キリストのみに従うことの意識が薄れてきます。そこでカソリック教会は修道院制度を始めます。修道士たちは毎日厳しい修練に生きようとしました。しかし修道院制度は返って教会の世俗化を促し、服従や禁欲は修道院内で行われる特別に召された者たちの業になってしまいます。修道僧だったマルティン・ルターは、み言葉は特定の少数者にかけられたものではなく、すべてのキリスト者、つまりすべての弟子に呼びかけられたのだと説きます。ペテロたちは主イエスの召しを受けてから修道院のようなところで修練を積んでいたのではありません。ただイエスの後に従うことを学ばされました。わたしたち一人ひとりも主イエスの後に従う者は弟子とされます。弟子とされる者は誰もが伝道者や牧師になるわけではありません。しかし弟子たる者は人々をキリストに導く働きを世俗の生活の中で行います。この世の生活の中で家庭、職場、学校で人々との触れ合いの中で、「人をすなどる漁師」の役割を果たしていくのです。西船橋栄光教会も人をすなどる働きに一人ひとりがイエスによって召されているのです。