聖 書  ピリピ1章8~11節
1:8 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。
1:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、
1:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
1:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。

金  言
キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。(ピリピ1:10 ~11)

 1999年、わたしは、聖書を翻訳するための宣教団体から遣わされた宣教師のお手伝いをするために、南太平洋の小さな島にいました。ある日、インターネットをしていた宣教師が「今、アフリカにいる宣教師から祈りの支援のメールがついている。彼らのために祈りましょう。」と言いました。キリスト者の祈りは今このときも世界中を自由に飛び回っています。そこには国境や言語の隔たりもありません。どんな厚く頑丈な壁も何万キロも離れた遠い距離も「祈りの声」を妨げることはできません。パウロがピリピの人々のために祈ったのは、ローマの冷え冷えとした牢屋の中でした。しかし彼はそこでキリスト・イエスの熱愛をもって(8)祈っています。わたしたちは誰かの困難な状況を知ったとき、祈ること「しか」できないのではなく、その情報を知って祈りの「特権」が与えられたなら、神に執り成すという「責任」を果たさなければなりません。

1.本物の愛の人になるために
 パウロは第一に愛が増し加わるように祈っています(9)。最近は愛という名のもとに、相手を拘束したり支配したりするストーカー行為やDVが大きな社会問題になっています。また子どもを溺愛するあまり、間違ったしつけや教育方法に走る親もいます。こうした盲目的な愛は相手に対しての本当の愛ではありません。本物の愛の人になるには「深い知識」が必要です。わたしは聖書に出会うまで本物の愛を知りませんでした。キリストの十字架は愛のしるしです。聖書で愛の章と言えばコリント人への第一の手紙13章です。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。…」(Ⅰコリント13:4~7)。聖書が示す本物の愛の定義から逸れて、勝手な思い込みで人を傷つけたり困らせたりしないようにしたいものです。またパウロは本物の愛の人になるために「するどい感覚」が必要だと言っています。愛することは鈍感ではできません。相手をさりげなく優しく気遣いながらそれを相手には悟らせない。別の聖書訳では「見抜く力」とか「霊的な洞察力」となっています。聖書のゴールデンルールは「人にしてもらいたいと思うことは何でもあなた方も人にしなさい。」です。心の目と耳を研ぎ澄まして心配りができる、本物の愛の人にならせていただきたいです。

2.本当に重要なことを見分けるために
 人が愛の人に変わると次のステップは、「本当に重要なことを見分ける」ことです。今日の聖書箇所には「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、」(10)とあります。わたしたちは日常生活で緊急な事と重要な事が混在しています。常に緊急を要するけど重要ではないことと、急がないけど決してほっておいてはいけない大切な事が人生には入り組んでいます。人は心情的にどうしても緊急なことを早く解決してとりあえず安心したいと考えてしまいます。結局いつも緊急な事だけを処理することに追われていて、本当に重要なことはいつまでも手つかずで、根本的な課題は自分の中に澱のように溜まって行くばかりです。聖書は自分の生活で緊急な課題だけを優先させないで、少し気の進まない自分の中の重要な課題にも向き合いなさいと教えています。クリスチャンのわたしたちは定期的に神様と二人きりで時間を過ごし、「本当に重要なことを見分け」ることで、世が要求してくることと神がお望みのことを判別しなければなりません。重要な課題を先延ばしにしてはいけないことを、聖書は「キリストの日に備えて、」(10)と言っています。キリストの日とは「再臨」の日のことです。

3.本心に立ち返るために
 最後の段階は、「純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされる」(11)ことです。イエス・キリストが再び地上に来られる日には、人はすべてさばきの座に立たされます。しかしキリストの十字架を信じて救われた者は、さばきのときを恐れる必要はありません。しかしあなたが救われた日から何も変わっていないと感じるなら残念です。キリストはあなたに聖書の本物の愛を教え、人を愛するのに鋭敏な感覚を身に着け、本当に重要なことを識別する力を与えることで、キリストの日に備えさせてくださいます。それは主のみ前にたったそれぞれが、純真で責められるところのないものとなるためです。ではイエス・キリストによる義の実(11)とはいかなるものでしょう。どうやら義の実は平和・平安に関係があるようです。聖句に「すべての訓練は、…それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル12:11)「義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。」(ヤコブ3:18)とあり、人間の造り主である神に立ち返ることは、造られた始まりの本心に立ち返ることです。そのとき人は自分にキリストによる義の実が結ばれたことを知ります。