聖  書:第Ⅰヨハネ4章7節~12節

(7)愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
(8)愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
(9)神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
(10)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
(11)愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
(12)神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

ヨハネは福音書と手紙の著者として知られています。彼は福音書の中で自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」(13:23,19:26,20:3,21:7,20)と呼んでいます。彼はアンデレと共にバプテスマのヨハネの弟子でしたが、イエスがメシヤとして来られた時にイエスの弟子となりました。彼はガリラヤ湖の漁師であったゼベダイの子であり、ヤコブは兄でした。ペテロとヤコブとヨハネはイエスの側近中の側近でした。ですから常にイエスと行動を共にしていました。大切な場面にはいつも顔を出しています。変貌山(マルコ9:2)、オリブ山(マルコ13:3)、ゲッセマネの園(マルコ14:30)、最後の晩餐(ヨハネ13:23,25) 十字架(ヨハネ19:26-27)などです。

Ⅰ.イエスによって変えられたヨハネ

ヨハネは兄ヤコブと共にイエスによって「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれたほど短気で偏狭で野心に満ちた人でした。イエスのエルサレム行きを歓迎しなかったサマリヤ人に対して、ヤコブとヨハネは「彼らを焼き払ってしまうように、天から火を呼び求めましょうか」と怒りを表しました。「イエスは振かえって、彼らをおしかりになった」(ルカ9:51-56)のです。また「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、・・やめさせました」(マルコ9:38)と言った時に、イエスは「やめさせないがよい」と言われました。さらにヤコブとヨハネはイエスに対して「栄光をお受けになるとき、ひとりはあなたの右に、ひとりを左に座るようにしてください」(マルコ10:37)と他の弟子たちを出し抜いて栄誉ある位を求めたのです。これらのことは愛のない、わがままな心の現れでした。

Ⅱ.ヨハネの説いた愛の真髄

ヨハネの手紙には「愛」が2.2節に一度、4章には0.75節に一度の割合で記されています。まさしく「愛の書」と言える手紙です。 1.愛の源泉=愛は、神から出たものなのであります。 2.愛の本質=「神は愛である」とあるように、神様の愛であることです。 3.愛の顕現=罪人の罪を赦し贖うために独り子イエス・キリストをこの世に  遣わし、十字架にかけて下さいました。ここに神の愛が顕されています。 4.愛の実践=愛は言葉だけでなく、実践して初めて相手に伝わるものです。 5.愛の完成=互いに愛し合う時に、神は私たちのうちに居て下さるのです。

Ⅲ.ヨハネの愛に見倣う

聖書の教えの中心は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ12:30-31)に尽きます。ヨハネは「互に愛し合おう。互に愛し合うべきである。互に愛し合うなら」(4:1,11,12)と記しています。これらの愛が家庭、学校、会社、地域、国家、民族の中で実践されることが最も必要なことなのです。

ヨハネは迫害を受けパトモス島に流されましたが、幸い死を免れ、高齢になるまで主に仕えました。老体に鞭を打ちながら集会に出ては「子たちよ、互いに愛し合いなさい」とだけを繰り返し語ったと言われています。