聖 書 ピリピ人への手紙1章27節~2章5節
1:27 ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、
1:28 かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。
1:29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
1:30 あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。
2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
2:2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
2:3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
2:4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。

金  言
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。…あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、(ピリピ 1:27)

 今日は、キリストの福音にふさわしく生きると題してお話します。救われたクリスチャンたちは自覚があるなしにかかわることなく、だれもが神の子どもとなります。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」(Ⅰヨハ3:1)。わたしたちは祈るとき神様を父と親しくお呼びします。言動において品性において、神様の子どもとしてふさわしい生き方をしているでしょうか。

 ある王国の幼い皇太子が侍従を伴って城下を散歩しました。皇太子は物珍しさで興奮してきました。一計を案じた侍従が皇太子の耳元で一言ささやくと落ち着きを取り戻します。侍従は「殿下、ご身分を…」と言ったそうです。クリスチャンも世にあって神の子どもであるという身分にふさわしく生活したいです。

1.神の子どもは「キリストにあって」一つになる
 教会にはいろいろなタイプの人がいます。年齢や男女においても考え方は異なります。多様性はお互いの違いを認め合うとき良い効果を生みますが、もし教会の集まりが単なるの自己主張の場になってしまえば、分裂分派を生み出す原因になります。パウロは「主にあって一致してください。」(4:2)と懇願しています。彼は教会が常に「一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって」(1:27)いることを願い、「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いに」(2:2)なることを喜んでいました。わたしたちはみな同じ親から生まれた兄弟姉妹と呼び合う仲で神の家族です。教会は親戚のように血族の集まりではないけれど、キリストがご自身の尊い血をもって贖いとってくださった「天的な血縁関係」という強い絆で結ばれた者たちの集まりです。だからこそ「キリストにあって」意見や考え方、嗜好の違いを乗り越えて、神の子どもは一つにならなければなりません。クリスチャンの仲間割れを陰で何より喜ぶのはサタンです。わたしたちは「福音の信仰のために力を合わせて戦う」(27)同労者なのです(エペソ4:3,4)。

2.神の子どもは「キリストのために」苦しみを給う
 ピリピの教会は先のような内輪もめだけでなく、外からの攻撃にも苦戦を強いられていました。投獄されていたパウロはそれを思うと気が気でなく「敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。」(28)と切望しています。パウロは神の子どもが大勢の敵を前に、毅然と立ち向かう姿は「救いのしるし」であり、キリスト者が迫害を恐れず神に従うなら、神はかならずわたしたちの味方となってくださいます。(ローマ8:31,32)。神の子どもは「キリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」(1:29)

今から約400年前、江戸時代初期にキリシタンの弾圧により1623年に殉教したジョアン・原主水(もんど)は上総の国(現在の千葉県佐倉市)臼井城主の嫡男でした。主水は1600年イエズス会のモレホン神父により洗礼を受けます。キリスト教布教を黙認していた徳川家康は信仰者の増加に脅威を感じて、主水に信仰を捨てるように迫ります。それを拒んだ主水は額に十字架の烙印を押され両手足の指と両足の腱を切られ追放。死を免れた主水は潜伏して布教活動を続けました。しかし密告によって二人の宣教師を含む五十人のキリシタンが火刑に処せられました。刑場に着くと主水は救い主イエス・キリストを証しして、主のために命を捨てるが、神は永遠の報酬を渡しに授けてくださると言ったという。「昔のクリスチャンは身を切られても信仰を捨てないという姿に証しがありました。イエスさまの十字架の贖いを、痛みを持って知る信仰だ」と言われます。

3.神の子どもは「キリストのように」へりくだる
 神の子どもの特徴はへりくだりです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の句にあるように、信仰の成熟したクリスチャンは一様に謙遜を身に着けています。パウロはピリピの教会に「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(2:3)と勧めています。意見が食い違うと、自分の考えの優位性や正当性をつい声高に言ってしまうときがあります。理解されない自分をひがんだり、なんとかして相手を説得したい誘惑に駆られます。パウロは「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(2:4)と訴えています。へりくだるというのは、他の人にへつらったり迎合することではありません。神が造られた相手の立場を思いやり、罪びとに過ぎない己を自覚して慎み深く生きることです。