聖 書 ピリピ人への手紙3章1~12節
3:1 最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。
3:2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
3:3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

金  言
「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」(ピリピ3:10~11)

わたしたちはしばしば人をたとえて言う説明で、「羊の皮をかぶった狼」という言い方をする。これを英語ではWolf in sheep‘s clothing と言う。その意味は一見礼儀正しく親切そうな人を装っているが、じつは腹黒い策略家な人のたとえである。この言葉はもともと新約聖書からきている。マタイ7:15に「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」の箇所だ。聖書では人間を愚かで弱い羊にたとえる。群れで過ごす羊にとって、見かけは自分と同様の羊だとだまされてそばにいくと、実は狼で獲物にされてしまうということだ。イエスが警告したように初代教会の中にも「羊の皮をかぶった狼」は存在した。パウロはピリピの教会にそれを警告している。

1.イエスの声を聞き従う従順な「羊」なるために
 3章からのパウロの手紙はやや厳しい口調に変わる。教会の中に「犬」と呼ばれる「悪い働き人」(2)が幅を利かせていたことに彼は憂いていた。働き人と書いてあるからリーダー的な役割を担う中心人物であることがわかる。彼らは「肉を頼みとする人たち」(3)だった。おそらくユダヤ教からキリスト教に回心した人たちで、彼らはユダヤ教の習慣や考え方から思考回路を新しく抜けきれなかった。キリスト教は「救いは行いによらない。ただ信じるだけで救われる」という恵みがわからなかった。「やはり、律法を守って割礼は受けなければ救われない。」と主張するグループだった。この問題はキリスト教会で持たれた最初の教会会議で論じられたほどの重大な問題だった(使徒15:1~29)。それは現代でも同じである。「恵みによる救い」というキリスト教の基本の教理を信じられなくて信仰持つことを踏みとどまる人は多い。とても残念である。

昨日、キリスト教書店に行くと入口のワゴンの中に今年のカレンダーやCDや便せんとハガキ、封筒などが満載してあり、但し書きに「この中の商品はすべて無料でいくつでもお持ちください。」とあった。売れ残った商品でしょうがまだまだ正価で売れる商品だ。私は喜んで商品を選んでいると、あとから来店してきた婦人が脇に立ち恐る恐る私に聞いた。「これすべてがタダって本当ですか?」私は「すべては今日来店された方へのお店からの恵みですよ」と笑った。しかし考えて見るにすべての人間はすでに「神からの救いの恵み」という途方もないプレゼントを生まれる前からいただいているのだ。わたしたち人間は「これすべてがタダって本当ですか?」という質問をイエスに尋ねて感謝すべきだ。

2.キリストを知る絶大な価値を知ったパウロ
 肉を誇るユダヤ人たちに対してパウロは痛烈な一撃を放ち彼らを論破する。それは「肉を頼みとするなら」なら自分もなくはないと語り始める。パウロはかつて熱心なユダヤ教徒で、聞けばだれもが羨むような経歴をもつからだ。それらの生粋の生まれや輝かしい功績をあえて肉を誇る人々の前に列挙し披露するのである(4~6)。パウロは自慢をしたわけではなく、自分にとって「益」だと誇っていたこれらのものを、キリストのゆえに「損」と思うようになったと告白している。このように救われると思考と価値基準がまったく新しくされる。救いとは神に向かって正しい方向に180度生き方を変えることだ。パウロは「損」ということばでは足りないと考え、「ふん土」と言い換えている(8)。ふん土とはけがらわしいもののたとえである。肉を頼みとする人たちは「律法による自分の義」に重きを置くことで、肝心な「キリストを信じる信仰による義」つまり「信仰に基づく神からの義」を見失う(9)。神からの義を受けられなければ、あなたは罪が残ったまま、死後神のさばきの座に立つことになる。

3.キリストと復活の力を知るクリスチャン
 人は大きなビルディングを瞬時に破壊することができる威力を持つダイナマイトを発明した。また核融合のように大きなエネルギーを放出する技術も発見した。しかし人間が作ったどんな力も到底及ばない力が、死者をよみがえらせることができる力である。人には命を殺すことはできても、殺したいのちをよみがえらせ生かすことはできない。復活の力を持たれるお方は神おひとりである。この死からのよみがえりとまことのいのちを授けるイエス・キリストの救いを知ることこそ、人にとって最も大きな祝福の道だ。わたしたちが生をうけて意義のある実り多い幸いな人生と永遠のいのちを得るために、救いを機に人生のスタートを切り、「キリストのごとくに」という完全な目標を目指して走りだしましょう。