聖 書 ペテロ第一の手紙1章18~21節
1:18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
1:19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
1:20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。
1:21 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。

金言 「あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。」(Ⅰペテロ1:21)

愛する人にプレゼントを用意することはわたしたちの心を弾ませます。どんなプレゼントでも準備するにはそれなりの手間も費用もそれなりにかかりますが、もらった人の驚き喜ぶ姿を想像するだけで心が温かくなり労苦は十分報われます。親から子へ、恋人同士、孫が祖母へ、渡す人ともらう人の間に笑顔と感動が行きかうのは、手渡されるものを超えて相手への愛が手渡されるからです。神はわたしたち人間にかけがえのない愛のプレゼントを準備されました。

1.欲しかったプレゼント 

人がプレゼントされてなにより嬉しいもの、それが前から欲しかったものなら喜びは格別です。神様からの愛のプレゼントはどんな人も望んでやまないものです。それを得ることによってわたしたちはなにをやっても結局むなしい生活から脱出することができるのです。十代のわたしは自分が何を目標に生きていくのかわかりませんでした。聖書にあるように「先祖伝来の空疎な生活」(18)を送っていました。それを解決するには自分が努力して頑張るしか道はないのだと途方に暮れていました。答えをあいまいにしたまま、流されるように学校を卒業してかろうじて小さな会社に就職しました。二十代は忙しさに自分をごまかし、収入が入ると旅行や趣味で気を紛らわせていました。しかし三十代にさしかかったとき、十代の時、先送りにしていた人生の意味や将来の目的に対する答えをおざなりにしてきたことの「つけ」の時期がやってきました。仕事に行き詰まりと限界に突き当たってしまいました。自分の今の苦しみをだれもわかってくれないことに寂しさと不安で涙する日が続きました。ひょんなことから教会に行き聖書を読みイエス・キリストの救いを信じることで、それまでと日常は変わりませんでしたが、恐れと罪から解放されていきました。わたしをかつてのむなしい生活から救い助け出すことができるのは、イエス・キリストの十字架による贖いによるしか真の解決はありませんでした。神様はイエスさまという愛のプレゼントを通して、わたしがどうしても欲しかった人生の目的と束の間の楽しみに終わらない永遠に変わらない生きる喜びを与えてくださいました。

2.価値があるプレゼント 

だれでも贈られたプレゼントが高価であるほど心動かされます。それは贈り主がそこまで犠牲をいとわずに自分を喜ばせるために準備したプレゼントであることを知っているからです。神様からの愛のプレゼントであるイエス・キリストは、わたしたちが生涯かけてもらうどんなプレゼントより価値あるものです。なぜならこのプレゼントをわたしたち人間に与えるために神ご自身がいのちをかけたのです。

韓国の旅客船セウォル号沈没は真に痛ましい事故でした。船長が旅客を置き去りにして船から脱出したという知らせの一方で、若いアルバイトの女性が自分の救命胴衣を学生に着せて自らは最後まで船に残り命を落としたという報道が胸を打ちました。日本は60年前に死者・行方不明者1155人という海難事故では最大の惨事が起きました。昭和29年に台風の影響で沈没した青函連絡船洞爺丸です。この船には3人の宣教師ディーン・リーパー、アルフレッド・ストーン、ドナルド・オースが乗り合わせていました。宣教師たちは荒海に放り出された人に、自分の救命具を着せてこう言い残したそうです。「もし命が助かっなら必ずキリスト教会に行ってください」。リーパーとストーンは命を落とし、オースだけが奇跡的に助かりました。命が助かった女性は遺言のとおり教会に行きキリストを信じて救われたそうです。わたしたちはどんな危機から命拾いしても、いずれは自分の罪のために死に永遠の滅びに向かいます。しかしキリストは十字架による死をもって命をかけて人類をそこから救い出してくださいました。聖書に「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブ9:22)あるからで、救いは「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」(20)が流されること以外にありえないからです。

3.神様からのプレゼント  

今、木曜聖研では「聖書66巻キリスト証言」の学びを始めました。これは旧約聖書39巻には名前すら出てこないイエス・キリストが実は聖書全巻に亘って証しされているということを一巻ずつ確認しています。「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。」(20)。キリストは信じたいと頼る人にためにだけ来られたのではありません。まさにあなたのために世に来られた救い主です。イエスさまは十字架で死にましたが、死人の中からよみがえってくださいました。これにより信じる者を義と認め新しく生まれやり直すことができる保証になりました。だから人の信仰と望みは自分自身にはなくキリストにあるのです(21)。