聖 書 マタイによる福音書5章1~12節

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

金言 「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」(マタイ5:4)

あなたはどんなときに幸せと感じますか、「人が幸せを感じる瞬間ベスト25」という統計によればおいしい食事を食べているや映画、音楽、ゲームを楽しむことがありました。もっと単純な幸せは夜ぐっすり眠れるとかお風呂に浸かっているがあります。

 

1.     イエスさまが語る幸せな人とは

イエスさまは自分のもとに大勢集まってきた群衆によく聞こえるために、小高い山に登り腰を下ろされて、そばに来た弟子たちに語って聞かせます。今日の聖書箇所は有名な「山上の説教」と言われた長いお話の冒頭部分です。山上の説教はマタイによる福音書5章から7章に書かれてあります。弟子たちは自分たちが選ばれたことが誇らしかったのです。イエスさまは数々の奇跡を起こし、他の人にはない威厳を備えていました。弟子たちはイエスさまに次いで誰が一番偉いかを比べあって自慢していました。イエスさまは「山上の説教」でクリスチャンが世にあってどう生きるかをじっくり語って聞かせたのです。群衆はイエスさまが難しい病もたちどころに癒したことを聞きつけて自分たちの悩みを解消して幸せをもたらす方に相違ないとイエスさまを追いかけるのです。イエスさまはそんな彼らを前にして「八福の幸い」を語り始めます。それは世が求める幸せとイエスさまが語る幸せな人の人物像が正反対なことに気づかされるのです。

 

2.     地における本当の恵み

イエスさまは「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と言われます。一般には貧しい人たちは不幸であるとされます。豊かな人や欲しいものは容易く手に入れることができる人が好ましいとされます。しかしイエスさまは違いました。神はすべてにおいて欠けたり、足りないところがないお方で、豊かさは神の象徴です。神は人が豊かになることを否定しておられるのではありません。人は豊かになり満ち足りてしまうと、謙遜さを忘れ自分には神など必要ではないと錯覚してしまう。世にある豊かさを愛するよりも神ご自身を愛し慕い求める心が大切なのです。人は自分が常にこころの貧しいもので、神様が共におられないのならひとりでは到底やっていけませんという告白こそ「こころの貧しい」悔いし砕かれたたましいに変わるのです。人のこころは神からの恵みの産物ではなく、神様を渇いて慕い求めるときに、神様はその姿をさいわいだと考えられます。

またイエスさまは「悲しんでいる人たちは、さいわいである(4)と言われました。私たちは悲しんでいる人を見て気の毒に思い同情することはあってもその人がさいわいであるとは思いつきません。しかし人が嘆き悲しむこころの痛みを隅々まで理解してあわれむことは他の人には限界があり創造者の神様にしかできません。悲しみを根本から癒されたいのなら、神様にすべてを打ち明けることです。慰めはそこから始まり悲しみから立ち直り回復に至る道なのです。だから今悲しんでいる人は神の慰め励まし力を受けるのです。

幼少期の病から耳が聞こえず目が見えず言葉が離せない三重苦と言われたヘレン・ケラーは両親に甘やかされたのでわがままで癇癪持ちな子でした。ある日盲学校を総代で卒業した二十歳のアン・サリバンが家庭教師につきます。アンは貧しい孤児でしたが福音を聞き救われていました。アンはヘレンを厳しくキリストの愛をもって訓練しました。やがて身体障碍者の教育福祉の先駆者として世界的な貢献者となったヘレン・ケラーを育て支えたのはアン・サリバンでした。

 

3.天における永遠の報い

私たちは地上の生活で満足するさいわいを求める必要はありません。イエスさまを信じることで「人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。」(11)と主は言われました。たとえ信仰を持つことで辛い目にあっても喜び踊れと書かれてあります。何があっても神様を信じ従う者には「天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(12)と約束してくださっているのです。

ジョン・ウェスレーが人生を閉じる瞬間に周囲の人々に語り残した最期の言葉は
「最も素晴らしいことは、神が私たちと共にいてくださることだ。」でした。

私たちも今の生活に満足できなくてもそれは不幸ではないのです。神はこころの貧しい者と共におられ、悲しんでいるときに最大の慰めを与えてくださるのです。神様は私たちクリスチャンを神の子どもたちと呼んで愛してくださいます。幼子が親を呼び求めるように、神様をあてにしてさいわいな者とさせていただきましょう。主はどんなときにも、永遠にともにいてくださるお方です。