聖 書: Ⅱコリント6:1~10
(1)わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
(2)神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
(3)この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
(4)かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
(5)むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
(6)真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
(7)真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
(8)ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
(9)人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
(10)悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
前回はペンテコステ記念礼拝で語った。同日のこけら落しコンサートは全体で350名を越す参加者があり、ペンテコステに相応しい伝道の働きであった。音楽ゲスト、奉仕者の皆様に心から感謝をささげる。宣教の基盤という話に戻る。
Ⅰ.今の時を生かしていく
Ⅱコリント6:2「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」。神様の時はクリスマス、再臨の時で大きく区分される。イエス様以前は、まだ不十分な救いの時代であった。イエス様が来られ救いを成し遂げられ、今も全ての人に救いの御手を伸べられている。終末には、艱難時代が来る。救いが困難な時代である。今この時、人々を恵みによって救いへと導く。Ⅱテモテ4:2「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても…」の御言とおりである。「悪魔のときはいつも明日である。神のときはいつも今日である。」とアラン・レッドパスは言う。冬の時代が来る前に、救いの業を果たしていこう。
Ⅱ.人を生かしていく
パウロは(1節)「神と共に働く者」と自分のことを語る。この言葉は2つの意味にとれる。マルコ16:20「主も彼らと共に働き」とあるように、僭越ながら、私たちは神様の同労者である。イエス様を信じる者同士もまた同労者である。パウロも、ローマ16:3「プリスカとアクラ」、同16:9「ウルバノ」、同16:21「テモテ」と記す。神様の働きを担っていくことは一人でできない。共にささげ、共に働く、互いに祈り、励まされていく。牧師の間だけではない、信徒同士でも同じである。命のつながり、愛のつながりがあってこそ私たちは互いに神様の前にある歩みが全うされる。
Ⅲ.大使として、僕として生きる
パウロは自分自身について、4節「神の僕」であると言う。パウロが最も良く使う「僕」という言葉は、奴隷という言葉である。この4節の「僕」は英語では執事になっていく言葉である。同じく訳されていても、責任、管理という意味合いが含まれる。5:20は「キリストの使者」と記されている。この使者とはアンバサダー・大使という言葉である。キリストの福音では、大使のような権威を持つものとして、人に仕えるということにおいては最も低い僕の姿を持つ。全く逆のものを同時に持つことができる。この世の価値や基準では測れないものを私たちは持ちうる。
私たちは恵みの時に救われた。共に主の前にあることで力をいただく。神様の大使として僕として生きるものである。この恵みに動かされて、キリストの福音を宣べ伝えていくものとなろう。