聖 書 使徒行伝4章23~33節 

4:23 ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。
4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。 4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか』。
4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。
4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。
4:33 使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。

金言
彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。(使徒4:31)

 

先週はペンテコステ礼拝で教会の生まれた日を祝いました。今もなおその神のみわざは続いており、世界中の教会から回心者が生まれ主の再臨するそのときまでイエスさまのからだとしての教会の働きを通して、神は神から離れて罪と滅びの中を突き進む人々を救おうとなされます。この国では1%に満たない私たちクリスチャンは、神にとって希少な切り札で精鋭部隊です。神の国に帰属するあなたは決して取るに足らない存在などではありません。

 

1.共に祈って聖霊に満たされ神の言を語る

聖霊に満たされたペテロとヨハネは、「イエスの名によって」語ってはならないと厳しく言い渡され、さらに議会で脅されたにも関わらず(18、21)神に従うことを躊躇なく選び(19、20)キリストの復活をあかし続けました。彼らはガリラヤの漁師出身で決して人前での弁舌に長けていたわけではありませんでした。現に聞いた人々は「ふたりが無学なただの人」(4:13)であることを知っていました。当時イエスが十字架にかかった事件はセンセーショナルな一大事でした。十字架刑は公開処刑ですからカルバリの丘にさらされたイエスの痛ましい死の姿は、人々に記憶にまだ生々しく新しかったのです。あれからわずか二カ月と過ぎない前にペンテコステは起こりました。もしそのとき墓からイエスの亡骸が見つかっていたなら、弟子たちがイエスは復活したと言い張っても一笑されたでしょう。しかし弟子たち全員が力強くイエスは復活されたとあかししました。彼らがもはや迫害や死を恐れなくなったのは、イエスの復活がまぎれもない事実であり、よみがえったイエスに会うという動かしがたい証拠を得たからです。釈放された二人は仲間のところに帰り迫害されたことすべてを報告します。しかし聖霊に満たされた人々は、それを聞いて怖気づくどころか、反って聖霊に燃やされて全員が口々に祈り始めます(29~31)。

 

2.共に祈って心を一つにし思いを一つになる

彼らの結束の固さはその場限りで終わってしまうような意識の高揚ではありませんでした。「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、」(32)祈りはお互いの心を通わせてひとつ思いにさせます。祈りの重要性とその絶大な効果について祈る人から話を聞いたり、信仰書で納得するより先に、ともかく二~三人で祈り始めることです。そして祈りの手を降ろさないことです。出エジプト記17章にモーセの祈りが出てきます。丘の下ではヨシュアがアマレク人と戦っています。モーセはとりなしの祈りを天を仰いでささげますが、高齢のモーセが力尽きて、祈りの手が下がると戦いが劣勢になります。モーセが再び祈りの手を高く上げると勝ち戦になります。そこで一計を案じてモーセの祈りの手が下がらないように、アロンとホルがモーセの腕を支えます。祈りの手は下がらず、戦いは勝利します。ヨシュアと一緒にモーセは戦いの現場にいませんが、祈ることで彼らを勝利に導きました。弟子たちが迫害を恐れず戦えたのは、仲間のとりなす祈りが彼らをサタンから守りました。祈りは神とのパイプを太くするとこを可能にします。またどんなことでも分かち合い一緒に祈ることができる祈りの友を得ることは、信仰生活の宝物です。教会において家庭において共に祈ることで聖霊はさらに豊かに働かれます。今日は礼拝後母と子の祈り会があります。祈りが応えられた感謝と今から祈って備えることで10家庭それぞれの重荷を担い合うのです。今は電波が届けば携帯やネットで誰とでも容易につながりあえます。しかし祈りのつながりは教会や信仰者同士だけに存在する時空を超えてイエスに仲立ちしていただく霊的な関係です。

3.共に祈って復活をあかしするとき恵みがくだる。

エルサレムに生まれた最初の教会は弾圧を受けました。しかし人々は迫害を恐れずますます大胆にイエスの復活をあかししました。するとそこに神の恵みは大きく下りました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。…」(Ⅰテサ5:16~18)。この生活サイクルがクリスチャンの理想です。でもなかなか実現できません。喜び、祈り、感謝が湧き出る源(ルーツ)は、神が今も生きてわたしたちと共におられると信じることからです。主の復活をあかしすることはわたしたちの霊的いのちをふるいたたせてくれます。続いて神が命じておられるのは「御霊を消してはいけない。」(5:19)のです。イエスをあかしすることは、私たちのうちにおられる御霊の火を燃え立たせてくださるのです。

ウェスレーはかつて「神以外は恐れず、罪以外は恥じず、十字架以外は誇らない。」と言いました。わたしたちはどうでしょう。恐れる必要のないものをむやみに怖がり、恥じることではないのに妙に人の顔色をうかがい、信仰を持っていることを隠して、せっかく主をあかしできるチャンスには黙ってしまい、反対に真に誇るべきものが何かを忘れて自分のプライドにこだわっていませんか。もしあなたの生活に神が中心におられない的外れな生き方だと気づいたら、悔い改めて、お互いにみまえに後悔しない信仰生涯を今日からでも始めたいですね。