聖 書 マタイによる福音書28章18~20節
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
金言 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:19~20 )
マタイによる福音書の最後は、ユダを除く十一人の弟子は復活のイエス様がガリラヤで待っていると聞いて出かけます。ガリラヤ―そこは漁師だった彼らがイエス様に初めてお会いして弟子となった感慨深い場所です。イエス様は十字架にかかられた自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを立ち直らせ、もう一度召命を与え遣わすために彼らをガリラヤの地に呼び戻されました。今日はイエス様が天に昇られる直前に命じられた「大宣教命令」を学びます。
1. 行って弟子とせよ
三年前にガリラヤの漁師ペテロたちを「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(4:19)と誘ったのはガリラヤ湖畔でした。しかし新たな出発となる大宣教命令を宣言した場所はガリラヤの山上でした。最初の宣教命令の言葉は「行け」です。この命令は日本語聖書では強い印象を受けませんが、英語の聖書における大宣教命令は「Go」という命令から始まります。
Boys,Be Ambitious(少年よ、大志を抱け)の言葉で有名なクラーク博士像は札幌を一望できる羊ヶ丘展望台にあります。彼は明治9年、アメリカから宣教師として札幌農学校に赴任してキリストを宣べ伝えました。あの像は右手で遥か彼方の地を指していますが、イエス様も弟子たちに「出て行きなさい」と命じられたとき、あの像のごとくにかなたまで広がるガリラヤの大地を指し示したのではないでしょうか。かの地にはだれか自分を助けてほしいと悩み苦しみながら心の内で嘆く人々が住んでいます。クリスチャンははまず出かけて行ってその人のかたわらに寄り添い、話を聞き親切を尽くして慰めと希望を与えることができるのです。福音を伝えたい人と心理的な距離を縮めることが先決です。それが「あなたがたは行って」という言葉に集約されています。
次に「すべての国民を弟子とする」ことです。「弟子」とは「教えを受ける者」「学ぶ者」を意味します。この場合、キリストの弟子が教えられ学ぶのは福音です。キリスト教は仏教のように自己の探求によって悟りの境地を開くものではなく、啓示の宗教と言われます。啓示とは人の力では知り得ないことを神が教え示すことです。十字架、復活、再臨という福音全体は啓示であり神から授からなければ到底知り得ない事柄ばかりです。イエス様は御父の啓示である福音の恵みを全世界の人に伝える使命を最初の十一人にバトンタッチしたのです。
2.洗礼を授け教えよ
次にイエス・キリストを信じた者に洗礼を授けよと命じます。洗礼は信じた者がキリストのからだなる教会に加わるために、信じたことを見える形で公に表明する儀式です。洗礼は聖餐と共に世の終わりまで教会が行うことを主が定めた礼典です。しかし洗礼は信仰のゴールではありません。今年のTBCの聖句は「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリ3:14)でした。キリストを信じた者はだれでも洗礼を受けて信仰生活のスタートラインに立ち、天の御国を目ざして走りぬくのです。信仰生活はイエスと二人三脚です。「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこう」(ヘブ12:1)最後は教えよと命じます。クリスチャンの教師は聖書です。デボーションで聖書を読み祈り御声に静聴して、実生活にみことばを適用しみことばを忠実に実践します。わたしたちの信仰の模範はイエスです。
3. わたしが共にいる
復活後のイエスは「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハ20:21)と言われました。イエスは公生涯の初めから、ご自分は神から遣わされていると宣言されました。やがて復活された主が天の父のもとに戻るときが来て、今度は弟子たちが大宣教命令を受けて遣わされた者となります。主はご自分の働きを弟子たちに託されたのです。この大宣教命令の最後に慰めの約束があります。それが「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」です。その保障はイエスが『彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。」』(ヨハ20:22)だと言われます。聖霊は主を信じる者に必ず与えられる神からの賜物です。聖霊は三位一体の神の三つ目の位格です。クリスチャンは内に住んでおられる聖霊なる神によって天におられる御父と御子と親しい関係にあります。宣教命令には同伴者がおられるのです。