聖 書:マタイ3章1~16節

(1)そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、
(2)「悔い改めよ、天国は近づいた」。
(3)預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
(4)このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
(5)すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
(6)自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
(7)ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
(8)だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
(9)自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
(10)斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
(11)わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
(12)また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
(13)そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
(14)ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
(15)しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
(16)イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

前回まで旧約聖書における救いを見てきた。続いて新約聖書に移る。神様の救いの歴史の大きな転換点となる記事である。ヨハネは旧約と新約の大切な橋渡しをした。

Ⅰ.準備の時が満ちて
私たちは旧約聖書の時代、救いの方策は律法による救い、行いによる救いであると考えやすい。救いの対象はイスラエル民族の救いに限られていたとも思いやすい。そのような考えは当然だが、神様はそこに留まることなくもっと大きく、もっと広く全ての人の救いを望んでおられた。旧約聖書の長い時代は、救い主が来るための準備の期間であった。どうしても自分の力で自分を救い得ない無力さ、救いに与るには救い主が必要だという待ち望みが人の心に満ちる必要があった。イエス様がこの世に現れる前、人々の心は神様を求め、救いを求めていた。

Ⅱ.準備の仕上げとして
バプテスマのヨハネの周りに多くの人々が集まってきたのは神様への飢え渇きに他ならない。パリサイ人もサドカイ人も、取税人もローマの兵卒もヨルダン川の岸辺にやってきた。支配者、宗教家、罪人と呼ばれる者、外国人もぞくぞくとヨハネの元に来ていた。ヨハネは悔い改めを求める厳しいメッセージを語った。耳に快いものではないヨハネの言葉を受け止めるだけの危機感が人々の心にあった。社会的な要因、政治的な要因、様々な背景があったが、何よりも聖霊が強く働かれたと言える。Ⅱコリント7:8からはコリント教会に起こった悔い改めが記されている。この悔い改めによってコリント教会には神様に仕え、従う熱情が起こった。そこに神様の新たな業がなされていった。

Ⅲ.準備が終わって
イエス様は少年時代、青年時代を過ごされたナザレを出てヨルダン川の荒野、ヨハネの元にやってこられた。イエス様は群衆の中の一人として、誰の目にも止まらずに来られた。ヨハネはイエス様を見ると「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫んだ。小羊は汚れなく可愛いらしいが、小さく無力な存在である。イエス様がこの世に自分を現された時も、自分を大きく見せ、力をひけらかすようなことはされなかった。イエス様が誰であるのかを知る者もヨハネだけであった。イエス様は人からの証明、推薦、保証を必要とされなかった。ヨハネから強いて洗礼を受けられたこの時、聖霊が天から下った、天から神様の声が響いた。三位一体の神様が神の子であり救い主であるイエス様を証明されている。

ヨハネのバプテスマは悔い改めを求めた。悔い改めは大切な神様への歩みだしである。救い主への備えに相応しい。イエス様は神様によって生きる者へと私たちを導き、造り変えていってくださる。