聖 書 マルコによる福音書10章35~45節
10:35 さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。
10:36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。
10:37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。
10:38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。
10:39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。
10:40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。
10:41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
10:44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
10:45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

金 言 「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:45)

先日おもしろいTV番組を見ました。オーストラリアの大企業ドミノピザの経営のトップCEOが身分を隠して自分の会社の一支店に新人のアルバイトとして潜入します。現場で働く雇用者に社長自らが仕えて働くためです。一週間後に社長は本社に戻り役員全員が現状を知るために支店の下積みで働くことを命じます。さらに社長は支店で出会った忠実に働く優秀な従業員を本社に呼んで身分を明かした上で十分な報奨を与え、問題がある部署は改善に取り組みます。近年のリーダーシップのスタイルは従来の支配型ではなく「サーバント(召使)リーダーシップ」が有効とされています。今日は仕えるために世に来られたイエス・キリストを学びます。

1.人を支配するリーダー「仕えられる人」

弟子ヤコブとヨハネは他の弟子たちに先んじてイエスに願いごとを頼もうとします。二人はイエスがイスラエルを救うリーダーとして人々の上に立つ時が間もなく来るに違いないと見越しました。そうなったあかつきには自分たちをサブリーダーとして両脇に据えてもらいたいと、いち早く頼みに来ました。これまでも十二弟子の話題は常に誰がイエスの次に偉いかを議論していました。ヤコブとヨハネはこの話題に早々と決着をつけたいがために、イエスのもとに嘆願に行ったのでしょう。そこでイエスはご自身が栄光を受ける時とはどのようななることか彼らにわかっていないと戒めます。二人はイエスが言った「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受ける」(38)という問いかけにためらうことなく「できます。」(39)と答えます。彼らはその本当の意味を理解していませんでした。それはまもなくイエスの身に起こる受難と死を指していました。(マル14:21、ルカ12:50)。他の十人の弟子は二人の抜け駆けを知って憤慨します(41)。同様の思いがあったのに彼らに出し抜かれたと感じたのです。わたしたちも同じ過ちを犯すことがあります。親と子、上司と部下、先輩と後輩、年配と若手、人間関係で人の上に立ち人に指示を与える立場になったら、相手から尊敬をされたいと願い話す言葉には一目置いてもらいたいと自己顕示欲が頭をもたげてきます。その結果自分の思い通りに物事を運びたいと願うとき、権力と権威を笠に着て誤ったリーダーシップを発動してしまいます。

2.人に仕えるリーダー「サーバントリーダー」

イエスは弟子たち全員を集めて世の中のリーダーとクリスチャンリーダーの違いを教えます。クリスチャンリーダーは神(主人)と人に仕える人です。仕える人とは主人を信頼する僕です。自分の努力の結果をあてにせず不可能に見えることも神にはできると信じる人です。伝道は簡単ではなく人はなかなか救われません(26)。しかしイエスは「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。と言います(27)。

また良い仕え人とは主人を本気で喜ばせようとする人です。人から「すごい。」と自分をほめてもらうような人々の人気取りのためではなく、主人に一緒に喜んでもらうことを願う人です。主人が留守をしている間に賢明に働いた僕は帰宅した主人から『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』(マタ25:21)と言われています。自分を喜ばせることに終始するのでなく、イエスに再会する時に主人の喜ぶ顔を思い浮かべて主のために今日を生きようとする人が良く仕える人です。

3.主の御思いを察して共に働く僕に

イエスは神の子であられるのに、世に降られ「すべての人の僕」となられました。それは「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(45)でした。この世界を創られ世界を支配され無限大の御力を持たれるお方が、「すべての人の僕」(44)となられました。その最後は自分の命までも差し出しました。王の王であられた方が、わたしたちを救うために「仕える僕」になられたのです。救ってくださった主人に良く仕えようとする人は、主のために受ける苦しみさえも主人と共に担う覚悟のできた僕です。リーダーを任されても支配的な人ではなくイエスという主人のように優しく心砕かれたへりくだった人です。主である父なる神はわたしたち愚かでふつつかな僕を救うことによって神の子として、ご自身の栄光と福音の前進のために用いてくださいます。