聖 書 マタイによる福音書13章13~21節
13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

金 言 「そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」(マタイ14:19)

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はイエスさまの行った数々の奇跡が書かれています。同じ奇跡を二つの福音書で書き記した記事はたくさんあります。なかには三つの福音書に取り上げられた奇跡もあります。しかし四つすべての福音書に記載された奇跡は今日の記事「五千人の給食」だけです。それだけにこの奇跡は弟子たちに神の子イエス・キリストの御力を目の当たりにする衝撃的で忘れがたい体験を残したに違いありません。

1.人の不足-「ここには…ありません」

バプテスマのヨハネの非業の死を知らされたイエスは深く痛み入ります。そこでイエスは人々の喧騒を離れておひとりになれる「寂しい所」を求めます。ガリラヤ湖を舟で渡られ御父の前にひとり静まろうとなさいます。ところがそのことを知った群衆はイエスの向かった目的地をめざして続々と徒歩で追いかけます。イエスは舟から上陸するとイエスの到来を待ち焦がれた群衆に出会います。心優しいイエスは彼らを見つめて深くあわれまれます。イエスは自分を慕ってどこまでも追いかけてくる群衆を退けることはなさいません。再びイエスは彼らに神の国について子どもから大人までよくわかるように語り始め、群衆の中に病気の人々はおいやしになられた。イエスは時間を忘れて話していると、いつしか日は傾きかけて夕方になっていました。弟子たちは群衆のようすに気もそぞろになってイエスに相談を持ちかけます。その日群衆は食事の間も惜しんで大勢の人々がイエスのおはなしに聞き入っていました。その場所は村から遠く離れた場所でしたから、弟子たちはひとまず群衆を解散させ、めいめいが食事を買うことができる村まで行かせるべきだと考えました。するとイエスは「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」とイエスは言も無げに言われました。弟子たちは目の前にひしめく空腹を抱えた群衆を見回しながら、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。と絶句するのです。どう考えても群衆の人数に対して手持ちの食糧は全く釣り合いません。誰が見ても絶対数が不足していることは明らかです。弟子の困惑をわたしたちもしばしば体験します。人間的に現状を見て憂いてしまい「ここには(これしか)ありません」とつぶやきや無理だとあきらめてしまいます。現状だけで未来を予測するなら信仰の出番はありません。わたしたちは信仰には現実ではとてもかないそうもないことを達成させる力があると信じるから、神により頼むのではありませんか。イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれて、反対にユダヤ人ではないのに優れた信仰者を手放しで称賛されました。イエスはその人の能力や賜物ではない信仰をよろこばれました。(ヘブル11:6)ビジョンを見据え人には不可能でも神はできると信じましょう。

2.イエスの要請-「それをここに持ってきなさい」

弟子たちが持っていたのは5つのパンと2匹の魚でした。彼らのつぶやきは「しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」(ヨハネ6:9)でした。まさに焼け石に水と思われたのです。イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われます。わたしたちはしばしば今の問題を自分の能力や采配で何とか太刀打ちしようと苦戦します。もしくは手元にあるものだけを見て勝利する見込みはないとあきらめてしまいます。

羊飼いの少年ダビデは戦闘に長けた巨人ゴリアテにただ一人で立ち向かいました。ダビデは身を守る鎧ではなく、5つの小石を選び見事最初の一発を敵の額に的中させ倒れさせました。わたしたちの持っているものが見かけもさえなくて、量も不足して今の必要はとても満たせないように思えても「これっぽっちで何になりましょう」と自信を喪失したり自己憐憫に陥らないでください。それが他人にどう思われようと臆することなく神の御前に信仰を持って出ていくとき、神はそれを何倍にも祝福して用いられます。

3.神の豊かさ-「天を仰いでそれを祝福し」

イエスは5つのパンと2匹の魚を両手に収めて天を仰ぎます。御父に祈りと願いをささげるためです。わたしたちは不足を訴えるのではなく、今与えられている恵みを感謝することでさらなる必要は満たされていくと信じましょう。弟子たちはイエスが祈るそばからパンと魚はあふれでてきて、空腹だった群衆は満腹しました。そればかりか余ったパンくずは12のかごにいっぱいになるほどでした。神の恵みは数え上げればきりがありません。あなたの信仰のかごを神の恵みで満たしてください。そのためには毎日が感謝と喜びに満たされていることです。神の豊かさは個人や一部の人の必要や満足に終わらず、イエスの前に来たすべての人に与えられました。人では解決でしなかった難問を自分だけで悩んでいないでイエスのもとに持っていき祈るとき新たな道が開かれます。