聖 書:マタイ3章13~17節

(13)そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
(14)ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
(15)しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
(16)イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
(17)また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことを契機として、荒野における誘惑を経て、本格的な宣教活動に入られました。このイエスの受洗はこれまでの準備の30年の仕上げであると共に、本来の使命である贖罪に向かう大きな分岐点として、非常に重要な位置を占めています。

Ⅰ.バプテスマ(洗礼)の意味
「バプテスマ」は名詞、動詞は「バプティゾー」で、「浸す・沈める」ことを意味しています。問題は「何を、何に浸すのか」です。聖書は「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:12)、
「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)と教えています。バプテスマ(洗礼)は〈キリストの中に自己を浸す、沈める〉、〈キリストの死と埋葬と復活との合体〉を意味しています。

Ⅱ.イエスのバプテスマ(洗礼)の意味
ヨハネはイエスの宣教に先だって「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んで、人々に悔い改めを迫り、心ある人々に「水のバプテスマ」を授けました。彼はイザヤが「荒野で呼ばわる者」と預言していた人物でした。そこにイエスがバプテスマを受けようとして来られたのです。ヨハネは驚いて「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに」と思い止まらせようとしたのですが、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言われ、バプテスマをお受けになりました。本来、罪のない神の子イエスは、バプテスマを受ける必要などはないのですが、「正しいことを成就する」ために、私たちに手本を示されたのでした。

Ⅲ.バプテスマ(洗礼)の恵み
イエスがバプテスマを受けられた後、三つの恵みが与えられました。この恵みはイエスに限られたことではなく、受洗にあずかる私たちにも与えられる恵みでもあります。
1.天が開かれたこと:天が開かれるとは、私たちの思いや考えが宇宙大になること、更には神との交流が可能になることを意味しています。
2.神の御霊が鳩のように下ったこと:鳩は聖霊の象徴であり、平和のシンボルです。聖書は「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)と勧めています。
3.天から声があったこと:「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」、この言葉はイエスの受洗と変貌山の時に語られた神の声です。私たちもイエスに対する信仰を告白して洗礼を受けるならば、イエスと同様に天の神様は私たちにも「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声をかけて下さるのです。

洗礼は信仰生活の到着点ではなく出発点です。必要にして十分な資格は、「神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」(使徒行伝20:21)です。