聖 書 列王紀下6章8~23節、ルカによる福音書24章30~32節
6:8 かつてスリヤの王がイスラエルと戦っていたとき、家来たちと評議して「しかじかの所にわたしの陣を張ろう」と言うと、
6:9 神の人はイスラエルの王に「あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤびとがそこに下ってきますから」と言い送った。
6:10 それでイスラエルの王は神の人が自分に告げてくれた所に人をつかわし、警戒したので、その所でみずからを防ぎえたことは一、二回にとどまらなかった。
6:11 スリヤの王はこの事のために心を悩まし、家来たちを召して言った、「われわれのうち、だれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げる者はないか」。
6:12 ひとりの家来が言った、「王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」。
6:13 王は言った、「彼がどこにいるか行って捜しなさい。わたしは人をやって彼を捕えよう」。時に「彼はドタンにいる」と王に告げる者があったので、
6:14 王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。
6:15 神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。
6:16 エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。
6:17 そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。
6:18 スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、「どうぞ、この人々の目をくらましてください」。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。
6:19 そこでエリシャは彼らに「これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう」と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。
6:20 彼らがサマリヤにはいったとき、エリシャは言った、「主よ、この人々の目を開いて見させてください」。主は彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、見よ、彼らはサマリヤのうちに来ていた。
6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか」。
6:22 エリシャは答えた、「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」。
6:23 そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった。

24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

金 言
そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。(列王紀下6:17)
 

エマオの途上を歩んでいた弟子たちは、目が遮られてイエスを認めることができなかった(ルカ24:16)。ところが、イエスと共に食卓の座についていたとき、目が開かれた、と書かれている(24:31)。同じように、遮られている目を開いて、神の素晴らしいわざを神が見せてくれた出来事が列王紀下6:8ー23に書かれている。
1.目が開かれる
神の人エリシャは、イスラエルの王に戦争に関する進言もしていた。そのため、隣国スリヤの王は、イスラエルの王を捕らえることができず、苦々しく思っていた。スリヤの奇襲が失敗する原因がエリシャにあることを知った王は、ドタンにいるエリシャを捕らえようとする(6:13ー14)。エリシャの召使いは、ドタンの周りを軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいるのを見て、驚いた(6:15)。しかし、「恐れることはない。われわれとともにいる者は彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:16)とエリシャは語り、召使いの目が開かれるように祈る。すると、「火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった」(6:17)状況を彼は見ることができるようになった。エリシャの召使いは、神の人が見る天の現実を、地の現実と共にみることができるようになった。  私たちは、この世界の現実を、神のわざの現実と同時に見ることができるだろうか。それとも、この世界の現実しか、見ていないだろうか。イエスが天と地のいっさいの権威を授けられた方である(マタイ28:18ー20)という現実を覚えて、この世界を見ているだろうか。どう見るかで、どう生きるかが決まる。
2.目が閉ざされ、目が開かれる
 エリシャは、続いてスリヤ人の軍隊の目がくらまされるように祈っている(列王紀下6:18)。現実が全く見えなくなった彼らは、エリシャに導かれ、イスラエルの都であるサマリヤへと連れて行かれる(6:19)。そこで、スリヤ人たちの目が開かれ、突如、自分たちがイスラエルの軍勢に囲まれ、捕虜となっている状況に気がつく(6:20)。エリシャは、スリヤの軍勢を全滅にすることは許さず、彼らをもてなし、そのあとに主君の元へと帰すようにイスラエルの王に進言する(6:22)。このような屈辱を味わったスリヤは、二度とイスラエルを略奪隊として攻めることはなかった。  神は敵さえも御自身の味方に主は変えることができる。敵の目を閉ざし、それを開かれる神は、同じように、迫害者パウロの目を閉ざし、それを開いて、イエスの福音を伝える者と変えた(使徒9章)。神は、かつて御自身に敵対していた私たちの目を開いて、私たちを造り変え、神の働き人へとしようとしておられる。
3. 見えなくなったとしても
 エマオの途上において、弟子たちは復活のイエスの姿を見たが、次の瞬間に、イエスは見えなくなっている(ルカ24:31)。その後、弟子たちはどのように生きていくのだろうか。前と変わらないのだろうか。そうではない。目が開かれた者として、復活のイエスの現実が見えなくても、イエスが今、目の前で生きておられるのを見ている時と同じように生きることへと弟子たちは招かれている。だから、本当に問われているのは、イエスが見えなくなっているその時に、どのような歩みをするか、である。  私たちはどのようにこの世界を見ているだろうか。エリシャのように見て、エリシャのように大胆に生きているだろうか。そして、いつも復活の主が生きて働いていることを見続けて、生きているだろうか。見ることは信じることであり、信じることは生きることである。