聖 書 ヘブル人への手紙11章13~16節
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

金 言 「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。」(ヘブル11:16)

 今日は聖徒の日として召天者記念礼拝をもちます。わたくしも昨年末父を天に送りましたので格別な思いでこの日を迎えました。父が召されて早十か月が過ぎて思うことは以前にも増して天国が近くなったと実感できる喜びです。今朝の礼拝は先に天に帰った人々に思いをはせます。と同時にわたしたちは信仰を持ったことで、老いて死んでゆくことはネガティブで忌み嫌われる出来事ではなくなりました。聖書は人が死んだ後、すばらしい約束があることを教えています。わたしたちは帰るべき「天のふるさと」に強いあこがれを持つことで、老いることや死に束の間恐れや苦しみがあってもやがて楽しみや喜びに変えられるのです。

1.信仰には死を超えた喜びがある

「これらの人々」とあるのは11章に出てくる旧約聖書に出てくる信仰の達人たちです。アベル(創4)エノク(創5)ノア(創6)アブラハム(創12)イサクとヤコブ(創26~創35)サラ(創23)の名前が挙がっています。彼らは神を信じて従い通しましたが、約束のものはまだ神様から受けることなく墓に葬られました。しかし彼らは死で終わらないしかも死を超える喜びを持っていました。それはやがて救い主がこの世界に来られて、この世界が救われ神と共に永遠の御国に住むという確信でした。神もまたこの信仰の始祖となる人々を喜ばれました。(6)彼らの生活は定住地をもたない天幕生活でした。ですから「地上では旅人であり寄留者であること」(13)は身を持って体験していました。それゆえどんなに地上の暮らしが祝されてもそれは<かりそめ>にすぎないと言ってはばかりませんでした。彼らに比べてわたしたちはどうでしょうか?あの時代より何倍も豊かな生活を享受しているわたしたちですが、人の欲に限りはありません。地上の暮らしに最高の生活を求めて自己実現に執着するならば、他人と比較して落胆することが多いでしょう。まして老いと死は豊かさはその対極にあり破滅に向かう道としか映らず到底受け入れられません。しかし信仰は死を凌駕します。まだ手にしていない目にも見えないものを、すでに受け取ったと同様に喜べるのです。

2.信仰には希望のある約束がある

わたしたちに与えられた希望は信仰によって聖書で神が約束されたことを信じることが出来ます。「天にあるふるさと」がいかにすばらしい場所であるか想像してみてください。そこには悪人がいません。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(黙21:27)十字架により罪が赦され心を聖くされた人だけが入ることがゆるされる場所が天国です。自分にそこに入る資格があるかとおののく必要はありません。イエス様の傍らで十字架につけられ死の間際で悔い改めた大罪人も天国に入ったのです。この世があまりに悪が満ちているので善意しかない「天にあるふるさと」を待ち焦がれます。

また天国は肉体的な苦痛や精神的な痛みから解放される場所です。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」(黙21:4)たとえ不治の病とされ死の宣告を受けても、天国を信じて神様の約束を疑わない人をサタンは絶望に追いつめることはできません。

3.信仰には神様の愛の実体がある

イエス様は十字架にかかられる前夜、弟子たちに「天にあるふるさと」についておごそかに告げます。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」(ヨハネ14:2)神様はイエス様を人間として地上に遣わすことによって天国の存在を現実にあることを人に知らしめました。わたしたちが地上の生活を終えて帰るべき最終の目的地は「天にあるふるさと」です。神様はすべての人が天国に入ることを十字架というイエス様がつくられた道を通ることで開いてくださいました。(ヨハネ14:6)天国は人間の願望が作り上げた架空の場所ではなく、実存します。なぜならイエス様は言われます。「場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)人の造り主である神様の下に帰り着くまでは、人が本当の平安と愛を得ることが出来ないと神様は知っておられるゆえ愛してやまない人々を招かれたのです。やがてわたしたちはひと足先に天のふるさとに帰られた人たちと再会を喜び合うのです。