聖 書 ヨハネによる福音書4章23~26節
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

金 言 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネ4:23)

今日のテーマは礼拝です。ある牧師は「礼拝するということは、現代人にとって決して当たり前のことではありません。日曜日ごとに教会に足を運び、礼拝に献げるという習慣は、私たちの社会ではむしろ少数派のものです。」と言います。その理由の一つは日本人の伝統的感覚では普段は神と関わりを持つ必要を感じないからで、霊力をふるう神に近づくことで災いを招くかもしれないので、特別な悩み事や祭りのとき以外は神と関わらずにすませることが平穏な生活の秘訣と考えるからだと言います。正に「さわらぬ神にたたりなし」とは日本人の宗教観そのものです。礼拝によって日常的に神と関わることは異質と考えます。キリスト者は毎週の礼拝こそ教会の中心的な営みで、信徒も守るべき最も大切なことがらであると教えられてきました。わたしたちはなぜ礼拝を重んじるのでしょう。

1.なぜ礼拝するのか

先日ある牧師が言われことが心に残りました。「現代人は対等な人間関係である水平(ヨコ)の交わりは盛んにします。ですが人々は垂直(タテ)神とわたしという関係を忘れ去っています。」確かに人々はツィッターやフェイスブック、LINEを頻繁にやりとりすることで遠くの人や直接会ったことのない人とも互いに距離を近づけようとします。またオフ会(ネットで知り合った同士が実際に集まること)やコンパなどで新しい人間関係を作ることに余念がありません。そうこうしている内に人々は益々ヨコのつながりだけを重要視してタテの関係には無関心無頓着になります。

画家のゴーギャンが遺作となった作品につけたタイトルは印象的です。「われわれはどこからきたのか、われわれは何者か、われわれはどこに行くのか」ここに人類の永遠の問いがあります。人は神様とのタテの関係を回復することでこの永遠の問いに答えが見つかります。キリスト教の礼拝は人類普遍の問いかけに答えることができる人格を持たれた神と人間の間に生じる交わりの出来事です。従って人間が人間としてふさわしく生きるためにわたしたちは礼拝が必要です。ですが当然ながら神は神であるために人間の礼拝を必要とはされません。もし神であるために人間にあがめあれ賛美と祈りと献げものがささげられなければ神でないとしたら、それは聖書の神ではありません。でありながら神はご自身が創造され愛する人間がささげる礼拝をこよなく喜んでくださるのです。こうしてわたしたちは神の愛の招きによって礼拝をささげます。

どのような礼拝をすべきか

イエスは22節で「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。」と言っています。わたしたちは自分が礼拝をささげている神がどのようなお方が知っています。災いやたたりをもたらす恐ろしい方ではなく荒ぶる神々を鎮める必要などはありません。まことの神は人間にこう言われました。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ31:3)。神がどんなに深く広い気高い愛を持って真実をつくされたか十字架と復活が雄弁に証明しています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(Ⅰヨハネ4:10)。わたしたち人間はこの神の真実な愛に報いる術はだれも持ち合わせていません。ただ人間の霊が霊である神とお出会いして相通じるように願いながら、毎週主のご復活された日曜日に表面的形式的ではなく習慣からでもなく、まごころから真実な礼拝をささげるべきでしょう。

3.礼拝から生み出されるもの

人が神の限りなき愛に真実に応えたい気持ちから礼拝をささげるとき、神は救いを求めてくる人間に神はご自身を明らかにされます。礼拝を通して神は人間を教育します。今日の箇所でサマリヤの女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」(25)といって救い主をあがめています。毎週の礼拝であなたも神からのあなたに対する語りかけを聴き取ってください。また礼拝は交わりです。神と関係だけでなく、礼拝に来たすべての人々との霊的な交流の場です。たとえ言葉を交わさなくても共に礼拝をささげる時と空間を共有することで信仰によってわたしたちはひとつとなるのです。最後に礼拝は宣教です。サマリヤの女はイエスと出会った後、イエスのことを町に人たちに伝えたいと熱心に願い思い切った行動を起こします。毎週の礼拝で神はわたしたちを神の民として整え、主が来られるその日まで礼拝をささげましょう。