聖 書 ヨハネによる福音書10章11~18節
10:11わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
10:17父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

金 言 「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。」(ヨハネ10:14)

 詩篇23編の作者ダビデは神様を羊飼いに見立てて、自分は羊飼いに飼われる羊であると歌っています。彼自身が王位に就く前身は羊飼いでしたから、羊飼いがどれほど自分の羊たちに対して愛情を注ぐかをよく知っていました。

1.よい羊飼いの条件

イエスはここでご自身を「わたしはよい羊飼いである」(11、14)と例えておられます。よい羊飼いの条件にまず挙げられるのが「羊のために命を捨てる。」(11、15)ということです。ダビデは羊飼いだった時、自分の群れの羊が襲われて危機に直面すると、吼え長ける獅子や熊を果敢に追いかけて野獣にかみ殺される寸前の羊の命を救い出しました(サム上17:34~35)。よい羊飼いは羊のためにはいつでも命を捨てる覚悟があります。神様はよい羊飼いが羊を決してあきらめないように人を救い出されました。人間は自分の犯した罪のために滅びること(堕罪)が当然の報いであったのに、イエスは罪びとを見捨てることをせず、サタンから奪還し命を救われました。

よい羊飼いはいつでも羊によい牧草や水を与えて養い、病気やけがから守ろうとされます。雇われた羊飼いは羊のことを心にかけませんが(13)、よい羊飼いは「心にかけて」くださいます。羊飼いである主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザ43:4)とすべての人に語りかけてくださいます。人が人を選ぶ目安は世の中が認める基準と同様に優秀だから、外見が好ましいから、若くて将来性があるからなどです。神様はそのようにはわたしたちをご覧になりません。この神様の愛のまなざしが弱った人を救います。「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:16)。わたしたちの造り主でよい羊飼いの主がいつも心にかけてくださることは、他人との比較競争社会で生きるわたしたちにとっては深い慰めとなります。

2.よい羊飼いの使命

イエスは父から受けた二つの使命を語ります。第一に「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるため」(10)とあります。エゼキエル34:11~16ではよい羊飼いは羊を「良き牧場で彼らを養う」「肥えた牧場で草を食う」とあります。主はわたしたちのたましいを教会という良き牧場・肥えた牧場で信仰生涯をおくらせ、信仰の友であり神の家族の中で養われ成長させます。教会は国家民族の壁を越えて一つの群れ、一人の牧者のもとに集まり世界中がイエスを礼拝します(16)。神様の養いと見守りは地上の生涯から天国まで続きます。「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(黙7:17)。

次にイエスは「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。」(16)と言われました。イエスの十字架は率先して救いを求める人だけでなく、現在は救われることに無関心な霊的な放蕩息子のためでした。神は大祭司カヤパにイエスが「散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっている」(ヨハ11:52)と証言させました。

3.よい羊飼いの真相

イエスは父なる神からたましいの救済者として、この世界に人となってクリスマスに降誕され、父から委託された唯一の方法・十字架による全人類の贖いを完成されました。イエスにはいざとなれば自分を助けるために「天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただく」権威がありました(マタ26:52)。しかしイエスはそれを行使されませんでした。却って「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」(ピリ2:8)旧約の預言の一字一句を新約において身を持って成就されました。イエスは自分から命を捨てる権威を持ち、捨てた命を得る権威がありました(ヨハ10:17、18)。イエスは最後の晩餐で「わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。」(ヨハ14:31)と死を恐れず悪に立ち向かわれます。

4.よい羊飼いに従って

救われたわたしたちは今「羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰った」(Ⅰペテ2:25)のです。羊が羊飼いの声に従ってあとを従順についていくように主にお従いしてゆきましょう。