聖 書 イザヤ書11章1~5節
11:1 エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
11:3 彼は主を恐れることを楽しみとし、
その目の見るところによって、さばきをなさず、
その耳の聞くところによって、定めをなさず、
11:4 正義をもって貧しい者をさばき、
公平をもって国のうちの
柔和な者のために定めをなし、
その口のむちをもって国を撃ち、
そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、
忠信はその身の帯となる。

金 言 「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。」 (イザヤ11:1~2 a)

今週から教会歴ではアドベントに入りました。アドベントを日本語で待降節と呼ぶように、キリストの降誕、また神の真理の光が闇のこの世に輝きだす心備えの時期ですから、最大の特色は「待ち望む」というところにあると思います。

クリスマスの成立と過ごし方
今ではキリスト教でなくても世界中がクリスマスをお祝いしますが、実は教会暦においてクリスマスが定められ、全世界的に祝われるようになったのはイースターやペンテコステなど他の祝祭日と比べて、かなり後の時代からでした。最初の3~4百年、つまり紀元1世紀から4世紀までは、一般の教会でもクリスマスは祝われていませんでした。最終的に12月25日に定められたのは、4世紀のことです。救い主の誕生日というような、ある意味とても重要な記念日が、長い間祝われなかったことには理由がありました。キリストを救い主として信じた初期の教会の人たちにとっての最大の関心事は、キリストがいつ生まれたかということではなく、教会が生まれる直接の要因となったキリストの復活と聖霊に対して関心が集中していました。そしてそのキリストがまもなく再び来られるという将来に向けての期待と希望を抱き緊張をもって生きていました。当時の人々はキリストがいつお生まれになられたかについては関心が薄かったにしても、この世界に神の子が救い主として来てくださったという事実そのものは忘れることがありませんでした。それは有名人や偉人の誕生日を探索するというより、闇の世に真理が天から光のごとくに投じられ地上で輝きだした瞬間という意味から、キリストの降誕が大切に考えられたのではないでしょうか。

降誕節の過ごし方も初期の時代と現代とは開きがあります。昔の人々は神がなさる偉大な出来事に対する準備として、祈りと共に悔い改めや断食が行われました。それは受難節(レント)に6週間に及ぶ懺悔と断食の期間に対応しています。アドベントは静まって救い主を待ち望む季節でした。今ではクリスマスは人々が集う賑わいの季節でご馳走がふるまわれ、贈物が行きかう華やかな季節です。

イザヤ7章のインマヌエル預言
 南王国のユダのアハズ王の時代、アラムと北イスラエルの王が同盟を結んでアッシリヤと戦おうと申し入れましたが、アハズは拒否をしたため両国はユダに攻め込みます(7:1-2)。アハズはアッシリヤに助けを求めます。預言者イザヤは政治的な策略を巡らせるより、静まって神に頼まなければならない(イザ7:4)と主からの忠告を伝えますがアハズ王は聞き入れません。そこで主自ら一つのしるしを与えます。それがインマヌエル誕生の預言のはじまりです(イザ7:14)。さらに9章でもメシヤ預言は続いて語られます(イザ1~7)。

メシヤ来臨の預言
 続くイザヤ書10章ではアッスリヤの高慢がさばかれます。アッスリヤは、力をふるった絶頂期に、ついに切り倒された大木のように倒されて、もはや再び起き上がることはできません(イザ10:33、34)。それを受けてアッスリヤを頼みにしていたユダ(ダビデ王族の血筋)も切り株くらいになるまで短く切り倒されてしまいます(イザ11:1)。しかし切り株となったそこから一つの芽が生え出します。それが救い主です。マタイやルカに出てくるイエス・キリストの系図の中にはダビデの父としてエッサイが記されています(マタ1:5、ルカ3:32)。切り株から生え出た一つの芽はもとの木より大きく茂ってより多くの実を実らせます。そしてこの救い主こそは、ダビデの子孫が永遠に支配するという神の約束を成就させるものでした(サム下7:16)。

3-5節は神様の正当なさばきについて語られます。わたしたちは他の人から公平に扱われたいと思います。ところが自分が他の人を評価するときは、外見、間違ったうわさ、偏見という基準で相手をさばいてしまうことはありませんか。キリストのみが完全で公平なさばきぬし(裁判官)です。キリストがわたしたちの心を統制されるとき、他の人に対しても公平に見ることが出来ます。

アドベントは、キリストの降誕という過去の歴史的な事実を記念するだけでなく、未来に向かって、神の国、神の支配がやがて世界にもたらされるというキリスト者だけが保持している希望を持って今年のアドベントを過ごしたい。