聖 書 ルカによる福音書2章8節~15節
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。

金 言「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2:14)

 

 救い主の誕生の知らせを主の御使いから受けて真っ先に駆け付けるのが貧しい羊飼いたちです。イエスの譬話に、王が王子の婚宴に招待した客たちが自分の都合を理由に来なかったので、町の大通りで庶民を招くと喜んで集まるという話があります。イエスは天国の救いの招きもこれと同じで「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタ22:14)と嘆かれます。救いの知らせを喜び「主がお知らせ下さったその出来事を見てこよう」と出かけた羊飼いに倣いたいと思います。

1.恐れが大きな喜びに変わる

羊飼いのおもな仕事は、羊の群れに良い草や水を与え健康に養い、野獣の襲撃の危険から羊を見守り、羊の病気やけがに注意します。そのため羊飼いは野や山で過ごして、羊のそばをいつも離れず世話を焼かなければなりません。当然安息日を守るために町の神殿に出かけることはありません。羊飼いは野外で過ごすことが多いので、厳しい自然と向き合う過酷な仕事でした。

羊飼いはこの夜も「野宿をしながら羊の番をして」(8)いました。普段通りのどかな夜空に星が瞬く静かな夕べに羊飼いが仰天するような出来事が突然起こりました。天に主の御使いが現れ、まるでサーチライトがめぐり照らすように、今まで見たことのないまぶしい閃光が現れます。この異様な光景に羊飼いたちは身を硬くして「非常に恐れた」のです。平々凡々な日常の暮らしを突如襲った出来事に、羊飼いたちが戦々恐々としたのは無理もありません。羊飼いの驚愕に御使いは恐れなくても良いとなだめの言葉をかけます。羊飼いはこの恐怖体験が御使いの知らせを聞くと大きな喜びに変わります。自分に起きたどんな出来事も神の許しがなければその事件は起こりません。たとえ一時的に恐い思いをしても、羊飼いのように後にそれが喜びに変わるときが来るのです。

2.救い主はすべての人に大きな喜びを与えた

恐れることはないと御使いが言った後に、羊飼いは驚くようなニュースを知らされます。イスラエルが長らく待ち望んだ救い主メシヤがついに今宵生まれるのです。このような大きな出来事が、イスラエルの預言者や宗教指導者にではなく、名も知られぬ羊飼いの自分たちに知らされた神のご計画に羊飼いたちは喜び勇んで即座に出かけていきます。(15)御使いは救い主のしるしは「幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある」(12)と教えます。救い主は人間の既成概念を破る斬新なお姿でこの世界に来られました。

喜びというものは何かを獲得できた人に限り芽生える特別な感情です。時にはある人にとっての喜びの知らせは他の人には悲しい知らせとなり得ます。しかしここに「すべての民に与えられる大きな喜び」(10)があるのです。それが救い主が誕生するという知らせです。人は誰も自分自身を救うことはできません。罪をもった人間にとって神のみが民の救い主です。クリスマスは神が救い主を人間の赤ちゃんとして世に遣わされたことを記念する時なのです。

3.救い主は栄光と平和のしるしである。

 御使いは人類普遍の喜びの知らせを告げると、大空いっぱいに「おびただしい天の軍勢が現れ」賛美の大合唱となります。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(14)です。

救い主は栄光と平和のしるしとなります。預言者イザヤは9:6でイエスを「平和の君」として生まれると預言しました。

栄光においてイエスは誕生だけでなく死においても栄光を現されました。誕生の際はおとめが聖霊によってみごもるという奇跡をとおして栄光を現されます。イエスは死によっても栄光を現されます。普通に考えるなら十字架にかかって死ぬことは敗北を意味するでしょう。ところがイエスは十字架にかかられる時はご自身の栄光が現れる時であると重ねて言っています。「人の子が栄光を受ける時がきた。」(ヨハネ12:23)。最後の晩さんの後でユダがイエスを密告するために出て行った後も、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。」(ヨハネ13:31)と言われます。17章でイエスが御父にささげた祈りは「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。…わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」(17:1、4~5)です。十字架による死は救いの完成であり、キリストは十字架上で栄光を現され永遠の救いを成し遂げられました。