聖 書:ヨハネ1章1節~14節

(1)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
(2)この言は初めに神と共にあった。
(3)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
(4)この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(5)光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
(6)ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
(7)この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
(8)彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
(9)すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
(10)彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
(11)彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
(12)しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
(13)それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
(14)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

クリスマスを迎えると巷は色とりどりの電飾で幻想的な世界を醸し出します。青色ダイオードの発明によってその色合いも格別なものになりました。子供の頃「心を育てる偉人お話」や「光をかかげた人々」などを通して、野口英世や北里柴三郎やナイティンゲールなどの話に心を躍らせたことを懐かしく思い出します。「偉人とは特別な人ではありません。努力を惜しまず、失敗を恐れず、決して諦めず、生涯、夢を忘れずに、一つの仕事に一生をかけた非凡なる凡人なのです」の言葉に強く感銘を受けました。キリストは単なる偉人ではなく、神が人となられたお方です。ここに「クリスマスに輝く光」としての意味があります。

Ⅰ.命の光
命どぅ宝(ぬちどぅたから)とは、沖縄方言で「命こそ宝」という意味の言葉です。命の尊さはいくら訴えても訴え過ぎることはありません。イエスも「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:26)、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)と言われました。ここで言われている「命」とは「寿命」のことではなく、「この言に命があった」と言われているように「神ご自身、イエスご自身」を表しています。クリスマスに輝く光とは「やみの中に輝く光」であって、キリストに従う者に与えられる命そのものなのです。

Ⅱ.希望の光
今年はテニスの錦織圭選手や中国杯で大きな傷を負いながら、バロセロナのファイナルにおいて二連覇を果たしたスケートの羽生結弦選手の活躍に大きな感動を覚えました。両者とも最後まで諦めずに戦ったところに勝利の秘訣があったのでしょう。聖書は「あなたがたのあった試煉で、世の常でないものはない」(Ⅰコリント10:13)、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」(ローマ5:4)、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と教えています。〈濡れ手で粟〉のような希望は本物ではありません。本物の希望は〈いぶし銀〉のような人生経験から生み出されます。ですから「希望は失望に終わることはない」(ローマ5:5)という確信にまで至るのです。イエスは十字架という苦難に勝利して復活され、永遠の命という希望を私たちに与えて下さいました。

Ⅲ.愛の光
キリスト教は「愛の宗教」と言われます。それは肉親愛や友愛や性愛ではなく、聖愛を意味しています。「言は肉体となり・めぐみとまこととに満ちていた」(14)のです。つまり受肉されたキリストによって、神は私たちに近づかれ、私たちも神と結びつくことができたのです。それはただ恵みにより信仰によるのです。
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16)。私たちはキリストによって光を受け、その光を多くの人々に掲げる使命が与えられています。

キリストはすべての人を照らすまことの光です。命と希望と愛の光に満たされ、知の塩、世の光として輝く者とならせて頂きましょう。