聖 書 使徒行伝4章8~14、29~33節
 4:8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
4:13 人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、
4:14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。

4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。
4:32 信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。
4:33 使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。

金 言 「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(使徒4:13)

先週は世界で初めて誕生した教会、それは使徒行伝2章に出てくる教会でした。この教会はわたしたちが理想とする教会の要素を兼ね備えていました。今週はこの教会がさらに神様に用いられていく宣教が拡大してゆく有様を通して、では神様に用いられた教会とそこに集っていた人々はどのような人だったのかを考えましょう。

1.神は無学な普通の人を用います
ペテロの説教を聞いて心が打たれて回心してその日バプテスマを受けた人たちが三千人いたと使徒行伝2:41には書いてあります。その後4章では「彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。」(使徒4:4)とありますから、ユダヤ教の宗教指導者たちの強硬な迫害も、使徒たちの目覚ましい働きをとどめることはできず、エルサレムの町はイエスをキリストと信じる人たちがみるみる間に増加していきました。

ペンテコステ以降、ペテロやヨハネはいつの間に多くの人を引き付ける卓越した説教者に成長したのでしょうか。彼らはイエスの弟子になる前身はガリラヤの地方なまりで話す漁師でした。都の中心エルサレムのアカデミックな律法学者がよどみなく話すような専門的な教育を受けた人たちではありませんでした。現にペテロとヨハネの姿を見た人たちは「ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(13)とあります。わけてもその話しぶりで人々の目を引いたのは「大胆さ」です。どのような権力から脅されても、ひるまず自分たちの信じるところを臆することなく堂々と確信を持ってこのように語りました。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(12)と信じてはばからなかったのです。
彼らは自分を誇ることはしないけれど救い主イエス・キリストを信じて堂々と誇りました。彼らは無学でありましたが無知ではありません。わたしたちも彼ら同様世にあって普通の人です。特別に人々を説得する話術に長けてはいませんし、どんな難問でも即答できる聖書知識のエキスパートなどではありません。ましてキリスト者は日本ではまだまだ少数派ですから、知らず知らずに信仰の出番は後退して、世の人とあまり変わりがない「器用な無難さ」を身につけてはいないでしょうか。しかし忘れないでください。神は普通の人を「神の器」として造り変えてご自身のために用いられるのです。

2.神は聖霊に満たされた人々を動かします
聖書の記述によれば、神の力が人に働くときは「聖霊に満たされて」いることがわかります。大祭司に尋問されたペテロは少しもひるまず、聖霊に満たされて答えます。ペテロはイエスが言ったことを思い出しました。「そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」(マルコ13:11)。またイエスの名によって語ってはならないとおどされても彼らは恐れません。信仰の友のところに戻り彼らは祈り始めます。それはどうか迫害をやめさせてくださいという後ろ向きで弱い祈りではなく「主よ、…僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。」(29)という前向きで力強い祈りでした。驚くことには「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。」(31)となったのです。神は聖霊に満たされた人々を動かします。聖霊に満たされたキリスト者は向かうところ敵なしです。

3.神は心と思いを一つにする教会に祝福を与えます
神が用いられる人は無学な普通の人を、聖霊に満たしてご自分の霊によって神を信じて従う人を動かしみわざを現されます。神が用いられる教会とは「心と思いが一致する」群れです。教会に集まる人は救いを求める心は一緒ですが多種多様な人の協同体です。教会は若者から高齢者まで男女がいますし、既婚未婚によって家族体系が違えば、感じ方考え方や主張は千差万別ですから、全員が一致して事を進めるのは容易いことではありません。それでもなお教会に集まる人同士が互いに受け入れ合いときに譲り合い、違いを超えて主にあって愛し合い赦し合うとき、キリストにある本当に麗しい家族となっていきます。パウロは「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」(エペソ4:2~3)と言います。相手の感受性を敏感に察知して「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」でありたい(ローマ12:15)。神は愛に満ちた教会を祝福されます。あなたは神に用いられるために選ばれ救われたのです。