聖 書 ローマひとへの手紙15章13~21節
15:13 どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
15:14 さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。 1
5:15 しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。
15:16 このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
15:17 だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。
15:18 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
15:19 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。
15:20 その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。
15:21 すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。

金 言 「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」                        (ローマ15:13)

 

1.望みにあふれさせる神

わたしたちの信じる神がどのような神か伝える場合に「望みの神」(13)というパウロの表現はふさわしいといえます。詩編の記者は望みの神に対して「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」(39:7)と感嘆しています。この神がわたしたち信仰者に与えてくださる望みとはどのようなものでしょう。それが「信仰から来るあらゆる喜びと平安」(13)です。信仰から来る喜びと平安を心に持っている人は、その人が置かれた境遇や現在の状況には左右されません。たとえその人にとっていやなことや辛いことが起こっても、また自尊心がぺしゃんこになるようなへこむようなことがあっても、生ける神キリストを信じる人は一時的に落ち込むことはあっても、いつまでもめげてはいません。それは形状記憶合金みたいです。形状記憶合金とは人為的に変形をさせても一定の温度になると自然と元の形に戻る金属の性質を利用したものです。わたしたちの心が悲しみでゆがんでしまっても、イエスの愛という熱に触れるとへこみが回復してかつての喜びと平安を取り戻すことができるのです。パウロは言います。「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:5)聖霊の力がわたしたちに尽きない望みを与えてくださるのです。

2.御霊が与える賜物

次にパウロは御霊がキリスト者に与える賜物について語ります。まず「善意にあふれる」(14)ことです。善意とは他人のためによかれと思う心です。善意にあふれた人は人のためになる行いを心がけ実践する人です。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)にあるように、神はわたしたちがキリストにあって良い行いをできるように、それぞれの日を計画されていますから、小さなことからでもみこえに忠実に示されたら、善に励もうではありませんか。また善意とは物事をすべて善いように受け取る素直な心です。その人にとっては一見不利益と思える出来事さえも、不機嫌にならないで善意に解釈できる人です。その人が「万事を益とされる神様」をどんなときにも信じているからです。

二番目は神からの「あらゆる知恵に満たされる」(14)ことです。人間の浅はかな知恵ではなく主の深い知恵に満たされて賢く生きることです。「わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」(Ⅰコリント2:13)とあり、この神の知恵に何時も満たされているために聖書を愛読することは欠かせません。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」とパウロは愛弟子テモテに勧めます。(Ⅱテモ3:16)聖書は愚かで迷いやすいわたしたちを神の知恵に満たします。

最後は「互に訓戒し合う力のあること」(14)です。パウロはピリピの教会に人たちに「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(2:3)と言います。信仰生活は教会がよりどころですが、そこに集う人の考え方や思いは千差万別です。同じ神を信じる教会の中に自分と異なった意見を持つ人はいます。意見が対立するときに、相手を自分の意見で説き伏せようとあわてるのでなく、お互いが相手の意見に耳を傾ける「愛とゆとり」をもちたいです。神はわたしたちに互いに訓戒し合う力を備えられたのです。自分が信じる対極にも正しさがあることを互いに認め合うことから一致が生まれます。神は目の前の人に中にもおられます。意見が対立するときにも「主の僕たる者は争ってはならない。」(Ⅱテモ2:24)と平和の主がわたしたちの心にささやかれます。

3.キリスト者の役割

望みの神はいつもわたしたちに喜びと平安を与えて尽きない希望にあふれさせてくださいます。わたしたちは心のうちに働く御霊によって、善意にあふれ知恵に満たされ互に訓戒し合う力があります。神はキリスト者それぞれに役割を与えられました。救われた身分とされたことで私たちは皆「キリスト・イエスに仕える者」(16)になりました。そして「神の福音のために祭司の役を勤め」(16)る者になりました。祭司の役目は神と人の間に立って仲介をします。キリストが祭司であられるように、救われたわたしたちはキリストの愛を受けて神の福音を人に伝え、イエス・キリストを拒む罪びとを神のみまえでとりなす役目を担おうではありませんか。時が来れば必ず「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」(21)と神に望みを置きましょう。