聖 書 ガラテヤ6章1~5節
6:1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
6:2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
6:3 もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
6:4 ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。
6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
金 言 「互に重荷を負い合いなさい。」(ガラテヤ6:2a)
わたしたちは自分の顔に汚れが付いていてもそのままでは気づかない。鏡を見てはじめて汚れに気がつく。それと同様に自分の欠点や失敗というものは、自分だけではどうしても気がつかないものだ。他人との触れ合いを通して起こる摩擦によって自分がいかなる存在かが分かる。そうゆうわけでクリスチャン同士は向き合ってお互いの罪あやまちを教えて合う必要が生じる。
1.あやまちを責めるのでなく
あるときイエスさまは「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たち」に対して、ひとつの譬を話された。ふたりの人が祈るために宮にやってくる。片方のパリサイ人は自分がいかに律法に忠実で公明正大かを吹聴するかのように祈り、隣の取税人に聞こえよがしに「この取税人のような人間でもないことを感謝します。」と神と人に訴える。後ろに控えていた取税人は悔恨の情のしぐさである胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』とうつむいて祈ったとある。わたしたちはこの譬のパリサイ人のようにあからさまに人の罪や過失を責めることはしないであろう。しかし多くの人は、あやまちを犯した相手と正しい自分を比べて、反射的に相手を心で責める思いがよぎることがあるのではないだろうか。ご存知のようにこの譬の意外な結論は「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人」だった(ルカ18:9~14)。
わたしたちが本当に1節でいう霊の人(新改訳:御霊の人)であるかどうかは、他人の過ちや欠点に対してどのような態度をとるかにしばしば現れる。肉に属する人は、他人の過ちを見ると相手を責めることによって、同じ過ちに今は陥っていない自分に満足してしまう。3、4節で「自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。」と陥りやすい罪を戒めている。相手の罪に気がついたら、自分も罪赦された者に過ぎないと自戒しながら言葉を選んで謙遜な態度で相手に接したい。だからといって罪に陥ったクリスチャンを見て見ぬふりすることも好ましい態度ではない。ヤコブ5:19、20には「あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、…そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」とあるように、主にある兄弟姉妹の過ちを摩擦を避けて黙認することがあってはならない。家族の誰かが罪を起こしているのに見過ごすことがないように、神の家族であるお互いは「愛をもって」諭し合うべきだ。
2.柔和な心で
パウロはここで「柔和な心をもって」正すようにいっている。柔和は御霊の実の一つである。柔和とは横柄な態度ではなくへりくだった姿勢をさす。旧約聖書ではモーセは柔和な人として、地上の誰よりも勝っていたとある(民12:3)。モーセは神の言われることに心から従う謙遜なリーダーであった。その穏やかな態度は人にも変わることなく、兄アロンや姉ミリアムから嫉妬を受けて、彼らにそしられても怒ることなく穏やかだった。神がミリアムに病を下しても彼女を置き去りにしないで、モーセはミリヤムが治るまで荒野の旅路を先に進まない柔和な愛の人だった。新約において柔和な人と言えば、イエスさまである。「彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。」(ゼカ9:9)イエスさまは柔和な王として来られると預言された。柔和な人は注意を与えた相手がたとえ挑発的、反抗的であっても、同調しないで依然穏やかな態度で対応できる人である。肉の人にはできないことも御霊の人には平常心でできる。その人に感情の起伏によらないで内におられるイエスの霊にその人が従っているからだ。
3.互いに重荷を負い合う
信仰生活はひとりでは継続も成長もない。信仰の良き友が必要である。そして2節にあるように「互に重荷を負い合いなさい。」。パウロは別の聖句で「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ5:7)と言う。思いわずらい(重荷)を神ではなく、人間に助けを求めるのは間違っていると思う人がいるだろうか。主にある兄弟姉妹に助けを求めることは不信仰ではない。自分の重荷を隠すのではなく、祈祷課題などで打ち明けて、共にその重荷を担ってくれるキリスト者の友を見つけることだ。お互い重荷を負い合うことは、信仰と愛の心がなければできない。 5節の「重荷」は原語では違う言葉を使っている。この意味は「全うすべき責任」である。キリスト者全てが負うべき責任とは自分の十字架である。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マル8:34)。まず自分を捨てキリストに生きていただかなければ自分に与えられた小さな十字架は負うことが出来ない。