聖 書 エペソ人への手紙3章6、14~21節
3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
3:14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、
3:15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

金 言 「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、」    (エペソ3:17)

先週は父の日にちなんで「父なる神に祈ろう」と題して話しました。今日の聖書は14節に「わたしはひざをかがめて」とあるように、パウロは愛する人々を思い浮かべて「父なる神」に真心からの祈りをささげています。祈りは歩いていても、横たわっていても祈ることはできます。ですが、どんなときも心の姿勢は神に向かって頭を垂れ、霊は謙遜で崇敬の思いに満たされて祈るべきです。「主は心を見る」(サム上16:7)とあるとおりです。

1.内なる人を強くして

パウロが聖徒たちのために求めたことは、まず彼らの「内なる人」が強められるように、ということです(16)。わたしたち信仰者は、サタンの試みや世のあらゆる誘惑に打ち勝ちながら、信仰が成長した聡明なクリスチャンになるためには、必要な霊的な力、気力、活力を身に付けなければなりません。もちろんこの内なる人が強くされるのは、その人の努力や研鑽が報いられた結果としてではなく、御霊が授けられるのです。ただし、御霊が私たちに力を与えることができるのは、神の言葉を必要な霊の糧としていただくことです。私たちが日に三度の食事を欠かさないように、毎日信仰がぶれないで生きるため、霊的飢餓状態に陥らないように、毎日のデボーションや聖書通読を行いたい。

そして、祈りはクリスチャンにとって呼吸であるといわれます。生物学上は意識して呼吸をしている人間はいません。カラダが必要な空気を体内に取り組んでくれますから心配はありません。ところが祈りの呼吸のほうは自動的には行われません。たとえ忘れても酸欠になることはありませんが、祈ることが減ると内なる人は次第に弱ってしまいます。信仰者は祈りを通して神様のきよい空気に触れると、霊も心も新しくされリフレッシュして、成すべき仕事に意欲的に取り組むことができます。

私たちは「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(Ⅱコリント4:16)というみことばから励ましをいただきます。人生年を取るということは、見た目は失っていくものが多くなると感じてしまいがちですが、神様は内なる人は御霊の力によって霊は「日ごとに新しくされ」成長して進歩すると約束されています。クリスチャンは年を取ることを、恐れや不安という否定的な要素だけでなく、毎日新しくされる自分に希望を持って生きることができます。ぜひ見た目の体力や若さを保つ努力だけでなく、内なる人のパワーをアップさせたいものです。

2.わが心はキリストの住まい

二番目のパウロの願いは「キリストがあなたがたの心のうちに住む」(17)ことです。私たちの内なる人が強められるのは、キリストが私たちの心のうちに住んでくださるおかげです。主イエスは回心して救われた人の内に住まわれると約束しておられます。「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」(ヨハネ14:23)と救われることで、人はわが心はキリストの住まいとなりました。問題は主が私の心で十分にくつろいだ気持ちでおられるかです。たとえば神様が思い煩うなと言われても、あれこれと心配事を持ち込んで心が騒ぎ平安がない。罪深い言葉を発し、悪い動機が生じ、悪い行うことで、主を悲しませてしまう。これでは私たちの心は、主にとって心地よい住まいとはなり得ません。要はキリストの支配権があなたの生活の細部にまで及ぶことです(Ⅰコリ10:31)。そうすることで信仰者は常に主により頼み、主に自らを委ね、主は確かに自分の内におられると信じることができます。

人は「キリストが私にうちに生きておられる」(ガラ2:20)ようになると、植物が根に支えられ栄養を得るように「キリストの愛に根ざし」、建物全体がその基礎に支えられるように、「キリストの愛を基と」する生き方となり、いつしかキリストに似た者に変わります(17)。

3.無限大に広がる福音の奥義

パウロの祈りは福音の奥義(最も肝心な核心となる事柄。真髄。)にまで達して無限大に広がります。「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ」(18)と述べています。福音はユダヤ人と異邦人を分け隔てしないで、彼らを一つにして教会ができたことは、神の恵みの遠大さ「広さ」を表します。「長さ」においては神のご計画は創造の初めから永遠に至るまで続きます。「深さ」については、測り知れない罪と堕落の穴に落ち込んでいた私たち人間を救うために、キリストは私たちに代わって死んで陰府にまで下られました。ついに人は救われることでキリストと共によみがえらせ、天上の座に達する「高さ」にまでもつかせていただいたのです(エペ2:6)。

最後にパウロの祈りはたましいを揺るがすような賛美で締めくくられます。キリストはこの世のすべての領域を凌駕する権威を持ちながら、限りない慈愛をもって私たちのところには主のしもべとして来られ、信じる者の内に今もとこしえに生きておられます。