聖 書:ローマ1:9~17
(9)わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。
(10)(9節に合節)
(11)わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。
(12)それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。
(13)兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。
(14)わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
(15)そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
(16)わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
(17)神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
前回は新約聖書より礼拝と訳される言葉「レイトゥルギア」を最初に取り上げた。礼拝は宣教、他教会の支援に向かうことを見た。今日は「ラトレイア」を取り上げる。元々は働く、雇われるという意味である。神様に仕えると訳される。9節「御子の福音を宣べ伝えて仕えている神」に出てくる。
Ⅰ.働き人の祈り
パウロがローマ教会の信徒たちに書き送った手紙である。前半は、特に救いとは何かを書き記した神学論文と言われる。理路整然、無味乾燥な言葉ではない、パウロの情熱が伝わってくる。今日の箇所は挨拶を終えて、最初の内容になるが、パウロの願いと祈りである。パウロとローマ教会の関係は親しい人たちもあったが、未だ知らない教会である。「どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。」(9・10節)と言っている。パウロは話に聞いているローマの教会を訪ねるという切なる願いがあった。「どうにかして」(9・10節)、「あなたがたに会うことを熱望している」(11節)、「切なる願いは」(15節)から知れる。
Ⅱ.働き人の使命
パウロがそこまで願うのは何故か。①「霊の賜物を幾分かでも分け与えて、力づけたいからである。」(11節)とある。賜物は恵みという語から来ている。努力ではなく、備えられているものを受取るのが恵みである。恵みの目的はローマの信徒が、力づけるためのものである。②「お互いの信仰によって、共に励まし合うため」(12節)である。信仰は第一に神様と私の関係であるが、第二に私と周りの他者との関係である。神様への信仰は共鳴する、共働する。互いに喜び合うものである。③「幾分かの実を得るために」(13節)である。パウロは目標のはっきりしない走り方はしない、空を打つような拳闘はしない(Ⅰコリント9:26)と言う。どんな働きであったとしても魂が神様につながる働きであれば、永遠への実が結ばれていく。
Ⅲ.働き人のチャレンジ
先週は使徒行伝13章よりパウロとバルナバが伝道旅行に送りだされる記事を見た。この第1回伝道旅行から始まって第3回まで続けられるが、途上エルサレムで捕えられローマへの旅につながる。パウロには常にチャレンジがあった。パウロはローマに行くという強い思いを語り、15章ではローマを越えてイスパニアに行くと言っている。パウロには地の果てまで神様の働きを進めていくと言う幻があった。パウロの強い言葉の背景には神様が託された福音の力への絶対の信頼があった。17節にある神様の義とは私たちにとって神様の救いに与ることである。神様の救いによって信仰から信仰へと進むことができる。この信仰によって生きるものである。パウロの確信と力は、救いに与った者の福音の力への信頼にある。
「御子の福音を宣べ伝えて仕えている神」(9節)にあるように福音宣教の働きは礼拝につながっている。教会が福音宣教の働きが留まる時、空気はよどみ、陰が差し始める。教会が福音宣教に立つときに最も積極的な力を表していくことができる。