聖 書 マタイによる福音書7章7~12節
7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

金  言

「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」(マタイ7:11)

今日は父の日です。その由来は母の日と同じように教会から始まりました。1909年アメリカでドット夫人が男手ひとつで、自分たち兄弟6人を育ててくれた父に感謝して、教会の牧師に頼んで、父親の誕生月の6月に特別な礼拝をもったのが起源です。彼女の父ウィリアムは南北戦争に従軍します。その間、母は一人で残された子どもたちを育て上げて夫の復員後に過労で倒れて亡くなってしまいます。父は残された子どもたちを成人まで立派に一人で育てます。母の日があるように父の日もあるべきだと考えて、この牧師の嘆願によってはじまりました。父の日はアメリカでは国の記念日になっています。さてキリスト教は、父といえば「神様」のことを「天のお父様」と呼びます。天の父は地上の父同様に、私たちを造り、私たちをわが子として愛し、子どもがおかした罪過ちの身代わりとなり罰を受け、私たちを見守りいつでも共におられます。私たち信仰者はこの頼りがいのある天のお父様に、祈りを通して親しい親子関係になることができます。

1.祈りのお手本は「主の祈り」
 さて愛する皆さん、お祈りは好きですか?「えっ、お祈り。…苦手、だって目に見えない神様に何て祈ればよいか、何を祈ればよいのかよくわからないから」と常套句同様、形式的に短くしか祈らない人もあります。ところで、小さな子どもでも諳んじることができるお手本となる完璧なお祈りを私たちは知っています。それが「主の祈り」です。先日「主の祈り」を毎日の生活に取り入れているという話を読み、これなら忙しいクリスチャンもすぐに取り入れられそうだと感じました。まず朝一番に、目覚めた床の中でそのままで、主の祈りをゆっくり味わいながら祈ります。日中移動するとき地下鉄の地上に上がる長いエスカレーターに乗りながら主の祈りを祈ると、3回繰り返し祈ることができたとありました。主の祈りは祈りとはそもそも誰に祈っているのか、私たちが本当は何を優先して祈るべきか、という祈りの基本に立ち返らせてくれる貴重な祈りです。主の祈りの意味をもう一度深く考えながら祈り黙想したい。

時々何か祈ってほしいことはありますかと丁寧に尋ねると、「別に」とあっさりすげない返事が返ってきます。祈りは神様と対話をすることです。神様は私たちを「ねたむほどに」深く愛しておられると聖書にあります。親しい友人との会話はエンドレスで電話やLINE、メールなどで頻繁に会話を交わし、神様とはすっかりご無沙汰ではいけません。

2.イエス様の祈りの三原則
 今日の聖書箇所でイエス様は祈りの三原則を話しています(7)。それが「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」です。祈って即座に聞かれる祈りというのは確かにあります。後から考えてあの時神様は祈った祈りにあのように応えられたとずいぶんと後になってからわかる祈りもあります。十年以上欠かさず祈っているのに一向に応えられないような気がする忍耐のいる祈りもあります。あきらめてはいけません。祈りはそれが神様のみこころなら、必ず聞かれます。あなたがあきらめていのらなくなったとき、そのことについてとりなす人が誰もいなくなるかもしれません。祈ったのに、外面的に何も変化が無くて祈りに力がなくなるとき、私たちは天の父の励ます声を聴きます。それが「求めよ、捜せ、門をたたけ」です。最後に、5万回の祈りの回答、イギリス孤児院の父ジョージ・ミュラー先生の言葉を引用します。「もう少しの信仰、もう少しの忍耐、もう少しの祈り、そうすれば神の祝福は必ずある。」私たちは祈り待ち望みましょう。

3.まず、天の父に祈ろう
 地上の父がわが子のどんな願いもかなえてやりたいと思うなら、なおさら天の父は私たちが祈ることで願う良いものを与えたいと願われています(11)。私たちが、幼い子がお父さんは何でも願いを聞かれると純粋に信じるように、天の父を信じて祈り求める時、父は「一番良い時に、一番良い方法で、一番良い方法で」必ず与えてくださるのです。
イエス様の話を聞くために集まった五千人の群集の空腹を満たすのに、イエス様の手元にあったのは子どもが持っていた5つのパンと2匹の魚だけでした。しかしイエス様はそれを手の中に収め、天高く掲げて天の父に感謝をもって祈ったとき、二万人の人々を満腹にさせてもまだ幾つものかごに余りが出るほどに、祈りに応えられたのです(ヨハネ6:1~14)。
確かなことは、祈りが応えられた感謝と喜びの体験は本気で信じて祈った人だけが知ることのできる特権です。そして祈り続ければ、必ず神様は祈りに応えられると知った人は当然のごとく「もっと祈らなければ損だ!」と思うように変えられるのです。