聖 書 コロサイ人への手紙 3章8~14節
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

中心聖句  あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(コロサイ3:9b~10)

いよいよ8月に入り夏本番を迎えます。季節柄、朝着ていた服は汗ばんでしまい夕方にはシャワーを浴びて、こざっぱりとした新しい服に着替えたくなります。私たちの身体の外側の汚れは簡単に洗い落とせますが、心にこびりついた汚れはどう落とせばよいのでしょう。よく使う日本語に「いのちの洗濯」という言葉があります。字義通り考えると、人の罪や汚れを洗い清める方法のようですが、残念ながらその意味はなく、普段の労苦から解放されてのんびり保養することです。聖書は罪で汚れた人生をイエス・キリストの救いを受け取るだけで、誰でも本当のいのちの洗濯ができる言い、きよめられたらそのきよさを永遠に保つことができると保証しています。

1.古い人を脱ぎ捨て、新しき人を着る

私たちはイエス・キリストを信じて救われたことで、それまでの自分とは内側に本質的に大変革が起きているのです。「古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ」たのです(9~10)。古い人とは罪深い性質を持つアダムの子孫としてのすべての人間です。私たちが新しくなるためには、自分の内に残る古き人を完全に「捨てて」しまうことです(5~8)。そのうえで新しき人を着るのです。新しき人とは神の子としての新しい立場です。救いによって私たちの内に神様は新創造のみわざが起こされ、私たちは新しく造られた者となりました。もちろん外見が変わるわけではありません。しかし信仰生活を積み重ねると年をとって老いても、内なる人は日ごとに新しくされます(Ⅱコリ4:16)。

新聖歌266「罪 咎を赦され」の歌詞は、

「罪咎を赦され 神の子となりたる わが魂の喜び 比べ得るものなし」と歌います。

人は自分で罪の償いは到底できません。それゆえ神は自分の罪ゆえに滅びに向かって進む人間を憐れんで、イエス・キリストの十字架によって無条件で私たちの罪を赦してくださり、救われた私たちは神の子と呼ばれる身分にまでならせていただいたのです。子どもであるなら親が有する性質にどこか似ている部分があるはずです。親に似るとはキリストの特質を身に着けることに他なりません。

2.キリストの特質を身に着ける

信じがたいかもしれませんが、神の御目から見た私たちの姿は「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なのです。世の中の評価や人の見るところはたとえ取るに足らないつまらない者のようであっても、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4新改訳)と言ってくださるのです。神の子どもとして、その特質を受け継いだ新しい人を身に着けましょう(12)。

12節の「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容」といったイエス・キリストにみられる特質を、ヨハネ8章の「姦淫の場でつかまえられた女」で考察してみます。「あわれみの心」とは新改訳では深い同情心となっています。イエスは姦淫によって石打の刑で殺されようとする女に対して、深い同情心を持ちました。一方彼女をつかまえてきた律法学者やパリサイ人の動機は、イエス様をためして訴える口実を得るためでした。利己的な目的のためなら手段を選ぶことをしない非情な態度です。イエス様は「慈愛」に満ちたお方です。この女性を攻撃的視線から守るためでしょうか、身をかがめて地面に何かを書きだします。「謙そん」とはプライドのないことです。イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。と言われます。この中で罪のない者で人をさばく権威があるのはキリストご自身だけでしたが、女に対しては「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。」と言われました。これは罪を見過ごされたのではなく「今後はもう罪を犯さないように」と女を諭したのです。「柔和」とは激情のないことを表し、「寛容」とは挑発されても忍耐し続ける態度です。イエス様は自分を陥れる者たちであるとわかっていても、彼らに対して少しも怒りませんでした。

3.赦し合い愛を身に着ける

イエス様は自分を十字架につける者のために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られました。ここにキリスト教の愛と赦しの原点があります。「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(13)。イエス様の赦しの深さや広さを教えられます。

教会は意見の食い違いや誤解によってお互いが傷つきます。教会内で摩擦や分裂が生じることを喜ぶのは実はサタンだけです。ですから私たちは愛し合いましょう。父なる神が愛だから子もそれに倣うのです。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯」(14)です。新しい衣を着て愛という名の帯でキリストの特質をすべてまとめます。