聖 書 テトスへの手紙2章11節~14節
2:11 すべての人を救う神の恵みが現れた。
2:12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
2:14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。


金 言 
「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)

先週から教会は「待降節」に入りました。待降節は英語でAdvent(アドベント)と言い、 これは「到来」を意味するラテン語Adventus に由来します。「待降節」はクリスマスから数えて4週前の日曜日から始まる期間で「降臨節」とも呼ばれます。待降節にふさわしく「主を待ち望む」ということについて、マリヤのように思い巡らしてみたいと思います。

1.救いを待ち望んだ人々

人は物事が順調に進んでいるときは他の人の助けを必要としません。しかし人生山あり谷ありですから、誰にでもこの窮地を救ってほしいと願うピンチのときは必ず訪れるものです。聖書は「すべての人を救う神の恵みが現れた。」(11)とあります。すべての人とあるからにはこの「救い」はこの人には救いとなるけれど、別の人には何の助けにもならないという類の救いではありません。どんな人にも効果が現れる救いです。人生には時がたてば解決がつく問題や乗り越えられる試練はあります。しかしすべての人が必ず向き合わなければならない問題なのに、太古の昔から未だに解決できない難問もあるのです。それが「死と死後に対する解決」です。キリストの救いは、この死という勝ち目のない敵に対して決定的な救いをもたらします。だから「すべての人を救う神の恵み」となり得るのです。この救いは神様のご計画に基づいて、旧約聖書において周到に準備され、預言され、新約聖書において神が人となった受肉、十字架、復活という遠大なストーリーです。新約において救い主を待ち望んだ人々に知らせは届きました。驚くことにやがて世界のビックニュースになる救い主誕生の知らせを信じて喜んだ最初の人々は、地位も名誉もない人々と異邦人と年老いた人たちでした。つまりは降誕の場面に登場する羊飼いたちや東方の博士たち、シメオンやアンナがこれらの人々です。今私たちはまさしくこの時代に生きる庶民として、彼らがそうしたように救いを待ち望む一人ひとりに「救い」を伝えようではありませんか。

2.再臨を待ち望む私たち

待降節はキリストの第一の到来のクリスマスを準備するだけでなく、第二の到来である再臨にも心を向ける期待と喜びの期間です。私たちが待ち望むのは二千年前にすでに来られたイエスさまの降誕を記念して、年毎に祝うクリスマスだけではありません。再臨を待ち望む心をクリスマスが来るたびに呼び覚まし、この次に主が来られる再臨に思いを馳せて、夜空の彼方を見据えてひときわ切望しようではありませんか。「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」(13)再臨によって「救い」は完成をみるのです。主は二千年前に「すでに」来られたのですが、再臨という視点からは「いまだ」主はいらしてはいません。インターネットの躍進によって情報過多の世の中ですが、私たちは日々過ぎ去っていく世の出来事に目を奪われ過ぎないで、御声に耳を澄ませて霊の目を覚まして、主が降臨された事実を祝うクリスマスだからこそ、現実みをもって再臨を待ち望みましょう。

3.きよめを待ち望む主

最後に「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、」と主が来られたわけがここに書かれてあります。それは「わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するため」(14)でした。新改訳では救った理由を「ご自分のためにきよめるため」としています。私たちは罪を抱えたままで主のもとに来て、それを洗いざらい告白して罪の赦しを十字架によって血潮のきよめにあずかりました。それゆえ救われた私たちは「不信心とこの世の情欲とを捨て」(12)ました。そしてできる限り「慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活」(12)しようと心がけています。もはや以前の私ではなく、生まれ変わって主の民とされたからです。罪びとのかしらである私にさえ主のあわれみと恵みによって救われました。こんな私がきよくされることを主が望んでおられるなら、私たちは聖化されることをひたすら待ち望もうではありませんか。「主のように 主のように きよくして ください。」