聖 書 マタイによる福音書14章22節~25節
(22)それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。
(23)そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
(24)ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
(25)イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。

弟子たちは突然の試練に遭遇しました。
試練というものはタイミングが悪い時、始まります。
(1)イエス様が一緒にいない
(2)何も見えない夜中
(3)舟はすでに陸から数丁も離れてしまって、陸に戻ることが出来ない
その時、嵐は始まりました。しかし、それでも弟子たちは挫けることなく、頑張りました。けれども、夜明け四時ごろになるまで、たださまようだけでした。彼らは嵐の中、試練の原因を探しました。その理由は何と他ではなく、イエス様にありました。

Ⅰ.弟子たちから見た試練の理由
(1)イエス様に従ったのが試練の始まり
22節を見ますとイエス様は急いで弟子たちを舟に乗りこませ、向こう岸へ先に送りました。「すぐ、しいて、舟に乗りこませる」、これらのことばを見ると弟子たちは何の理由も分からず、急いで舟に乗りこみました。
試練そのものは大変ですが、イエス様に従ったのにも関わらず、ひどい試練にあうとき、私たちは耐えられません。

(2)原因がイエス様なのに助けに来られない
もう一つ耐えられないことがあります。どうせ、助けて下さるのであるなら、早めに助けて下さればいいのに、イエスは結局、夜明け四時ごろになるまでは弟子たちのところに来られませんでした。その間、弟子たちは死の恐怖と戦っていました。
しかし、これはあくまでも弟子たちから見た試練の理由でした。
イエス様の視線から見るとまったく正反対のことになります。
II.イエス様の視線から見た試練の理由
(1)イエス様がそばにいなくてもいないのではない。
人間はイエス様がそばにいないと一緒にいないと考えます。しかし、イエス様がそばにいなくて、イエス様はいつまでも弟子たちと一緒にいます。体は離れているように見えますが、イエス様は弟子たちのために祈っていました。
試練の中、イエス様がそばにいないと感じただけで、実際はずっと一緒におられます。

(2)イエス様こそ、待っておられる。
イエス様は実は弟子たちが助けを求めるまで待って。弟子たちは最初、イエス様に助けを求めませんでした。彼らの心の中に人間的な方法や頼りになることがあったからです。彼らの心からすべての希望が無くなって、死ぬこと以外には何も考えられないその時、イエス様が彼らを助けるために来られました。人間が出来ることがゼロになった時、神さまのみわざによって助けられるのが救いです。

私たちの心には救いを邪魔するものがあります。神さま以外のこの世のもの、人が最後まで頼りにしているものですが、これらのものを自分自身で断ち切るのはとても難しいです。
ですから、神さまは大変な試練を通して、この世の頼りになるものを諦めさせます。人間は試練の中でこの世の最後の望みが無くなった時、神さまに救いを求めます。
劇的に救われた人はこのように信仰を告白します。「ほんとうに、あなたは神の子です」。

私たちも試練の中、神に助けられ、真心から同じく告白したいです。