聖 書:ガラテヤ人への手紙2章15節~3章5節
(15)わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、

(16)人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
(17)しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
(18)もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。
(19)わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
(20)生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
(21)わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
(1)ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
(2)わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
(3)あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
(4)あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。
(5)すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

1.「十字架につけられたイエス・キリスト」
「目の前に描きだされた」とは、プラカードで明確に示されたという意味です。示されたのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」です。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(2:19,20)は、キリスト教信仰の核心です。
もし、この「神の恵み」を無にするならば、キリストの十字架の死は、無駄な死となります。キリスト信者が、どうしてそんなことをすることができるでしょうか。あり得ない話です。しかし、それが起こったのです。

2.「だれがあなたがたを惑わしたのか」
だから、「ものわかりの悪い」(1,2)と、パウロは半ば呆れ驚いています。それは、偽教師たちに「惑わされ」たのです。律法を守ることが救いの条件としているユダヤ律法主義者たちです。なんとペテロさえも、福音に立たずにその偽善に引きずりこまれてしまいました。それをパウロは厳しく叱責しました(2:11-14)。ガラテヤの信者だけではなく、現代のキリスト信者も、いつのまにか、同じように、惑わされる危険があるのです。
律法主義の問題は、①神ではなく、人ばかり見えてしまうことです。(1:6-10)。②キリストが教えキリストの救いを示す聖霊の証ではなく、異なる霊現象に惑わされることです。(4:8-11)。③ただ、キリストの十字架を信じることが物足りなく感じ、自分の善行を付け加えることです(3:2)。使徒たちが伝え、新約聖書に記され、わたしたちに伝えられた古い福音に堅く立つべきです。

3.「ただこの一つの事をあなたがたに聞いてみたい」
「ただこの一つの事」に答えてほしいとのパウロの詰問です。二者択一を迫っています。「御霊を受けたのは」(キリストの救いに与ったこと)は、「律法を行ったからか」、「聞いて信じたからか」。
ガラテヤの教会も、キリスト教の歴史においても、現代のキリスト教会も、いろいろな信仰的な問題を抱えてしまいます。原因追求や解決案の提示も必要でしょう。しかし、パウロは、ただ、この一つの質問をしただけです。この一つの事には、妥協、曖昧さはないのです。
「聞いて信じる」とは、「十字架につけられたキリスト」を、ただ信じて、義とされたことです。「わたし自身にはわたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは、断じてあってはならない」のです。(6:14)。