聖 書 マルコ1:14~15
1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

福音書は4人の記者によって書かれてあります。クリスマスに開かれるのはイエス様のご降誕の物語があるルカによる福音書2章です。一方でマルコによる福音書にはイエス様の降誕のシーンは登場しません。マルコはイエス様の公の生涯から描き始めます。イエス様は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。と自らの使命の開始を公言された。福音宣教の始まりです。

1.福音宣教―その時と場所
 福音宣教の始まり―それはどんな場所から開始されましたか。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた」(14)とあります。福音宣教の始まりは中央のエルサレムではなく、辺境の地ガリラヤ地方からでした。ガリラヤはパレスチナの北の方で、当時はユダヤ人と異邦人が雑居することで、そこに住むユダヤ人の多くは異邦人の生活様式を取り入れて暮らしました。マタイ4:15には「異邦人のガリラヤ」と呼ばれてさげすまれていました。しかし辺境の地から主イエスの宣教が始まったことは福音の本質を突いています。福音は本来虐げられ、捕われた者への解放を意味するからです。
つぎにイエス様が宣教を開始された時について、マルコは「ヨハネが捕らえられた後」(14)と証言しています。ヨハネは領主ヘロデに対して諫めたことをきっかけに捕らえ殺されます。神の真理の証言はヨハネが捕らえられたことで、主イエスは緊迫感をもって、ご自分が立つべき時がいよいよ迫ってきたと感じたのではないでしょうか。そして神の福音を宣べ伝えたのです。宣教とは倫理道徳を教えることではありません。宣教とは事実の告知と言われます。神がいかなるお方で神は何を行おうとされたのか、何を知っておられるのかについての良い知らせです。これが神の福音の福音です。

2.   福音宣教―その告知と命令
(1) 時は満ち、神の国は近づいた
ここで「時」と言うのはギリシャ語でカイロスと言います。英語ではopportunity好機、何事かをするのに特別な時、定められた時です。豊田栄著「マルコ福音書注解」には①一世紀以上の戦乱の時が終わり「ローマの平和(Pax Romana)と言われる時代であった。②スペインからインドに通じるローマ帝国の軍用道路が完成して福音宣教に道が開かれた。③ローマ帝国には、独自の宗教があったが、日占領地域の宗教には比較的寛大だった。④コイネーギリシャ語が共通語として広い範囲で普及。⑤ディスポラと呼ばれるユダヤ人(故国を離れて全世界に散っていた。)はシナゴグと呼ばれる会堂で礼拝を守っていた。そこが福音宣教の拠点となった。さらに旧約聖書から新約聖書へと発展する神の救いのご計画において「時が満ちた」と待ったなしでした。そしてバプテスマのヨハネの活動が阻止された今こそイエス様自らが立つべき「時」だったのでしょう。つまり福音が宣べ伝えられるときは時が満ちているのです。決断の時は後伸ばしにしてはならないのです。(Ⅱコリント6:2)人生はできるだけ自分の自由に生きて、死の床に就いたときにはじめて福音を信じて、天国に入れてもらえば良いと思うなら、せっかく神が準備されている恵みの日、救いの時を逃してしまうでしょう。

(2)悔い改めて福音を信ぜよ
時が満ちて神の国が接近しているという事態が、この世に対する神の告知または宣言であるなら、あなたは「悔い改めて福音を信ぜよ」という神の訴えと勧めに耳を傾けて素直に従っていくこと、これが信ずることです。自分の知的水準で福音を理解してからと、いくら猶予期間をとっても新たな発見はありません。十字架と復活をそのまま受け入れて、神の啓示された唯一の福音を信じて、罪を告白して悔い改めるとき、負い目は取り去られ十字架という途方もない恩寵のゆえに神から赦されているという実感に、人は誰でも平安に満たされます。悔い改めとは単に後悔とは違って「立ち返る」ことです。正しく方向転換するのです。それまで神に背を向けて歩んできた者が、神と向き合って歩き出すことです。それは回心の一度きりのことではなく、日頃から自分の罪を見過ごさず神のみまえに包み隠さず祈ることです。十字架の前に赦されないほどの大きすぎる罪などない代わりに、この位の罪なら誰でも犯すからと欺き通せる小さな罪もありません。

神に立ち返る機会を逃さないように、神はいつでも人の回心を待っておられます。