聖 書 詩篇1編1~6節
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

新しい年の初め、多くの人が「この年が幸い多き良い年になりますように」と願います。人は幸いな人生というと、病気や事故、けがをせずに健康で暮らせること、家族が災いに会わないで平和に仲良く暮らせること、お金があって経済的に困らないこと、就職や結婚が願うとおりに決まること等々があります。しかしご承知の通り人生は谷あり山ありです。良い時もあれば、最悪と思える時もあります。健康や平和だけが人生の幸いと考えたら、それが失われた人はもはや幸いでなくなるのでしょうか。ところが聖書の詩篇1篇では別の幸いな人生があると教えています。人はこの幸いな道を見出すとき、状況と境遇に左右されない幸いな人生を歩むことができます。この幸いを自分のものにしたいと思います。

1.「幸いな人」ってだれのこと
詩篇1篇は詩篇全体の要約と言われます。1~2節では「主のおきてをよろこぶ」(2)正しい者の幸いと、神の命令に背き正しいことや聖なることをばかにする悪しき者(1)が対照的に描かれています。1節の最後のことば「さいわいである」は原文では文頭にあります(新改訳と新共同訳参照)。それは詩篇全体の基調的な思想で語源は「まっすぐに歩む」という動詞から来ています。つまり幸いな人とは神に対してまっすぐに歩む人です。
幸いな者は主のおきてを喜んで、そのおしえを一日中「口ずさむ」(新改訳)ことで黙想しそれを心に留める賢明な人です。ヨシュア記1:8には「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。」と主のおしえを愛し守り行う人は、盛んになり栄えて繫栄するだろうとされます。
反対に悪しき者は主のおしえをないがしろにして、自分に都合の良い「はかりごと」を企て、「罪びとの道」に外れていき、誇り高ぶって神を「あざける者」で、神のご支配を嫌って、神様に従順にまっすぐに歩むのではなく、わざと神の道から遠ざかり自分で良いと判断した好みの道に進みます。

2.「幸いな人」ってどんな人?
 では幸いな人は何にたとえられるでしょう。ここでは「流れのほとりに植えられた木」(3)です。木のそばの水は澱むことなく絶えず新鮮な水が流れているので、木は健康に成長してやがて豊かな実を結びます。葉はどの季節も青々と茂り立ち枯れることのない常緑樹のようです。それはとこしえの繁栄と祝福を現し「そのなすところは皆栄える」(3)のです。一方悪しき者のたとえは「風の吹き去るもみがら」(4)です。もみがらの中身は空疎で、風が吹けば消えてなくなり価値がないはかない存在です。悪しき者は悪賢さのためにひとときは栄えても、やがて衰退して滅びの道に向かいます。
これで分かるように、人生で成功することが人の幸いを決めるわけではありません。試練にあって辛い時を過ごす人は人生の敗退者のようです。しかし苦しい時でもみことばを慕い求めて、祈りによって神に近づき神を疑わず、神との深遠な交わりに生きようとする人が本当に幸いな人です(ヨブ42:10)。

3.「幸いな人」ってどうなるの?
 神は一人ひとりが幸いな人になると共に、教会の集いが常に「正しい者の集い」(5)になるよう願われています。それは罪びとであるお互いが、イエス・キリストの十字架による贖いを信じる信仰によって、義とされた者の集まりとなるという正しさに立脚しているからです。神の子どもたちの集いは、常に自らを聖別してきよくされるという厳粛な「神のさばき」(5)があるので、みまえで悔い改めをして、幼子のように素直で純真な心で神と向き合うべきです。ですから「悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。」(5) のです。正しい者の道は主のみもとまで延ばされまっすぐ続いています。しかし悪しき者の道は早晩滅びるのです。
幸いな人生とは神のことばを喜び、いつも心に留める人です。人生に苦難の日が来ても神の約束を信じて神と共に歩む人です。教会は信仰によって正しい人と認められた者たちの集まりとなり、やがて地上に神の国は完成するのです。