聖 書 エゼキエル36章24~28節
36:24 わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。
36:25 わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
36:26 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
36:27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。

2017年初めての船橋栄光教会での礼拝に感謝。この年、皆さん個々人に何をなしてくださるのかを期待し、共に励みたい。

Ⅰ.エゼキエルの時代
今の時代も厳しさを感じるが、エゼキエルの時代はどんな時代だったのか。エゼキエルの生涯の間で、彼は先にバビロンに引き行かれ、バビロンの地でエルサレムの陥落を知った。1:1にあるようにエゼキエルが預言者として神様から召命をいただいたのは、遠くバビロン近郊のケバル川のほとりであった。エゼキエルが最初に見た幻はケルビムであった。2:1からはエゼキエルが最初に聞いた神様のメッセージが記されている。3:1には神様の言葉を食したことが出てくる。エゼキエルは神様を見る、神様に聞く、神様の言葉を食する、さらに神様の命じられるままに象徴的な行いをするという行動に基づいた預言者であった。エゼキエルの時代は南王国ユダも滅ぼされバビロンに捕えられ移される不信仰、偶像礼拝の裁きが下される時であった。エゼキエルは痛みや嘆きの時代に神様に仕えた。

Ⅱ.神様による回復
12月アドベントの礼拝に開かれたイザヤ書はエゼキエル書から100年ほど前の話になるが、神様の義と裁き、愛と回復が前半、後半に記されていると学んだ。エゼキエル書も裁きと回復、断罪と希望が記されている。前半が32章まで、後半は33章からとなる。今日の36章は後半、希望と愛が記されている。今日の聖書箇所の内容は、
①  きよめる すべての汚れ、すべての偶像からのきよめ。清い水とあるが民数記19章には清い水によるきよめが記されている。牛の犠牲によって全焼の灰が作られ、灰によって清い水が造られた。血と命のあがないによって、なされた神様の業である。
② 新しい心、新しい霊が備えられる  石の心ではなく肉の心が備えられる。石は冷たい、堅い、命がない。肉は暖かい、柔らかい、命がある。新しい霊による御業である。
③ 神の地に住み、神の民となる 物理的、信仰的に遠いバビロンから、神様の約束の地、父と蜜の流れるカナンの地に導かれる。私の民、私の神という隔てのない関係となる。

背信のユダの民の汚れ、偶像崇拝からのきよめとは、神様の愛の深さ、豊かさを感じる。ここまでされるのかという懇切、丁寧な神様の取り扱いである。

Ⅲ.神様による歩み
神様の大いなる愛によってユダの民は、やがての日にバビロンからイスラエルに戻ることができる。大きな愛を受けてもユダの民が以前のままであったなら、イザヤはユダの民に、背き続けて足の裏から頭まで傷だらけであるとまで言った(イザヤ1:5・6)。であるなら、またもや直ぐに背いてしまうだろう。回復されたイスラエルの民は変えられる。27節「わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」とある。神様の定め、おきてに遠かったユダの民であったが何故変われるのか。新しい霊、新しい心が備えられることこそが全てである。神様によって変えられないものはない。

この新しい年、神様の願いは私たちも新しい心、新しい霊によって生きることである。神様に従うことを喜びとし、大きな神様の祝福を見させていただこうではないか。新しい年も主は共におられる。めぐみのうちに歩む私たちである。