聖  書:マルコ5:25~34
5:25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
5:27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
5:28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
5:29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
5:30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。
5:31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。
5:32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
5:33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
5:34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

今年はルターが1517年10月31日、ローマカトリック教会が免罪符を販売したことに反対して宗教改革を敢行した時から500年という記念すべき年です。それから「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」に立つプロテスタント教会が生まれました。信仰について考えてみます。

Ⅰ.信仰が芽生える
物質社会において大切なことは「信用、信頼、信任」です。しかし、精神面においては「信心や信仰」です。「信心」は信じる心を重視しますが、「信仰」は信じる対象を重視します。今日の主人公は「12年間も長血を患っている女」です。何という気の毒な身の上でしょうか。彼女は長年月患い、多くの医者に診て貰い、食い物にされ、全財産を失い、なんのかいもなく、病状はますます悪くなる一方でした。誰を信用し、信頼し、信任すれば良いのか、もう生きる気力のかけらも持ち合わせていない状況にまで追い詰められていたのです。こうした状況の中に、人間にではなく、神に信頼の目を向けるという信仰の芽が芽生えたのです。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」のです。(?コリント12:9参照)。

Ⅱ.信仰を働かせる
「信仰は聞くによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ10:17)。彼女はイエスの噂を耳にし、群衆の中に紛れ込んで、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、み衣にさわったのです。イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」(マタイ17:20)、つまり、「信仰」には「からし種」のように大きく成長する性質があることを教えられました。重要なことは「信仰」は大きいか、小さいかではなく、いかにこれを働かせるか否か、なのです。彼女は内にある切なる願望を、「み衣にでもさわれば、なおしていただける」という、小さな信仰を働かせたのです。信仰生涯はこの小さな一歩から始まるのです。

Ⅲ.信仰は神の力を引き出す
彼女の小さな信仰は即座に答えられ、「血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」のです。一方主イエスは「自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き『わたしの着物にさわったのはだれか』」と言われました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」と言われました。小さな信仰が、神の力という大きな結果を引き出したのです。

ルターによる宗教改革の本質は、それまでの〈行為によって生きる=律法〉から、〈信仰によって生きる=福音〉という、本来の聖書の教えに立ち返ることにあったのです。