聖 書 ルカ4章16~19節、40~44節
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

4:40 日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。 4:41 悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。

4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。
4:43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
4:44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。

イエス様が宣教を公に始められたのは、おおよそ30歳の時だった。(ルカ3:23)その教えと奇蹟のほとんどはガリラヤ湖周辺で行われた。ガリラヤ湖畔のテベリヤには紀元25年頃、ヘロデ・アンテパスが領地ガリラヤとペレヤの両地方の首都としてガリラヤ湖の西岸のテベリヤに、ギリシャ・ローマ風の都市を好み宮殿や競技場を建てた。しかしイエス様の宣教活動は、都会から離れた湖の北側の村々を巡回して「神の国の福音」を宣べ伝えられた。イエス様はどうして宣教の拠点にこの地を選ばれたのか、宣べ伝える対象は誰だったのかを学び、その宣教の情熱を受け継いで、この地での宣教2年目に備えたい。

1.     宣教の対象は、誰のために
 イエス様はガリラヤ湖北側の村カペナウムのシモン・ペテロの家に住み、ペテロのしゅうとめの高熱を下げた。(ルカ4:38-39)そこで貧しい人々に向けて、教えをなし、イエス様のもとに連れてつれてこられた人々の病をいやし、悪霊を追い出された。(ルカ4:31-40)イエス様の12弟子となったピリポも漁師だったアンドレやペテロも北側の町ベツサイダの出身である。イエス様は町に入ると、会堂に行きそこに神と神のことばを慕って集うユダヤ教徒に向けて、旧約聖書を開き「神の国の福音」を宣べ伝え慰めの言葉を取り次いだ。彼らはエルサレムで学べるようなユダヤ教の高等教育は受けていなくても、救い主の到来を待ち望んできた民である。そこにいた囚人(新改訳は捕われ人)や盲人、打ちひしがれた者に福音を宣べ伝えさせるために、イエス様は遣わされた。(ルカ4:18-19)
わたしたちもまた主の御霊をいただいて、現代社会のしがらみに捕われている人、霊的な真理を解さない盲人、失意と助けを必要としている方々に、救いを告げ知らせることで、その方が新しく生まれ変わり「主の恵みの年」を迎えるために、今年もたゆまず祈り、惜しまず働きを続けましょう。

2.     宣教の地は、どこに向かって
 イエス様は会堂だけでなく、山上の説教(マタイ5-7章)やパンと魚による給食が行われたのもガリラヤ湖北側であったとされる。会堂以外で出会った人はイエス様の教えに初めて聞き入る人々もいた。山上の説教の締めくくりのことばは印象的だ。「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。…権威ある者のように、教えられた」(マタイ7:28-29)
わたしたちは神の国の福音を教会で礼拝説教を聞いた人だけでなく、教会に無関心で足を向けない人たちにも、何とかして神の愛を知ってもらいたいと願う。あなたが証しやみことばを上手に相手に伝えられなくても、神様はわたしたちの人格や行いを通して、ご自身が愛であることを伝える機会とされる。わたしたちそれぞれが置かれた人間関係や職場、学校、家庭環境そこが宣教地になる。そこに主があなたをつかわされた。伝えたい相手にとってはあなたの存在がただ一人の身近なクリスチャンかもしれない。つまりわたしたちは、常に宣教の最前線にいて、言葉を越えた神の愛の代弁者とされています。

3.     宣教の目的を成し遂げるために
イエス様は御父のみこころをおこなうために、ガリラヤのひなびた町々を陸路と湖を船で渡って神の国の福音をくまなく宣べ伝えた。けれど教えを喜ぶ人ばかりではなかった。イエス様が気に入らないと町の外に追い出し崖に突き落とそうとされたことや (ルカ4:28-29)、悪霊による妨害もあった。(ルカ4:31-36、41)あからさまな妨げでなくても、イエス様の奇蹟や病の癒しを見て、自分たちの利得のために、イエス様に町を離れないでと引き止める群衆もいた。イエス様は彼らの願いを退けて、天におられる御父と固くつながっているために、朝早く祈りの時間をたっぷりとった。(ルカ4:42、6:12)福音宣教という神様からの尊い使命を自覚して全うするために祈りは欠かせない。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださった…。」(ルカ4:18)と、宣教の始まりに際してイエス様が開かれたイザヤ書61章を心に留めてゆきましょう。