聖 書 エペソ1:13~14、18~19
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

聖書で相続の話がといえば、ルカ15章11節から始まる「放蕩息子のたとえ」が有名です。父から生前贈与を引き出した弟息子は、財産すべてを持って逃れてそれを湯水のごとく使い果たして落ちぶれて父の元に帰ります。またルカ12章13節以下では、遺産の争いの件でイエスに調停を頼もうとする人がいます。イエスはその人と群集に向けて、裕福な農夫の浅知恵のたとえを話します。このように人はときには相続を通していくばくかの財産を譲り受けます。

けれどキリスト者は地上で手にするどんな富にも格段に優れた宝を、救われることで天から「神の国をつぐ者」として相続します。それは朽ち果てたり無くしたり盗まれることのないだけでなく永遠に保持できる財産です。

1. キリスト者は神の国をつぐ者である
 13節をお読みします。「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」つまりわたしたちは救われることで、欠けだらけの弱いこの身に聖霊が内にお宿りくださいました。救われても外見は救われる前とさほど違いは見受けられません。しかし神によって、この人は確かに罪赦されて、新しく生まれ変わりましたという「聖霊の証印」が押されているのです。一般に印が押された物は、蔵書であれ牛や羊など家畜であれ、それが押した人の固有の所有であることを示します。印を押すことで他の人の物とまぎれても取り戻すことができます。パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びている。」(ガラ6:17)とイエスの所有とされたことを誇っています。わたしたちは贖いによって神の御手に買い戻されました。だからそれが判別できるように「聖霊の証印」が押されています。この聖霊が「わたしたちが神の国をつぐことの保証」となり、それまでの自分を喜ばせるための人生から、神を喜ばせる人生となり、神の栄光をほめたたえる者とされるのです。
先週はケズィックが開催されました。かつて箱根ケズィックで聞いたスティーブン・オルフォード先生のお父さんのことばが、最初に使った古い聖書に書き留めてありました。「たったひとつの命しかない。それは矢のように過ぎ去る。しかしキリストのために成したみわざのみが、永遠に残る。」キリスト者が心に留めておきたい含蓄のある言葉です。

2. 神からいただく望みと富と力という財産
 ヨハネ15章でイエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。…」(16)つまり神の救いというのは福音を聞いて信じるか否か、人の側の判断で決まるのではなく、あくまで「わたしがあなたがたを選んだ」という神の側からの選びなくしては起こりません。しかしそれは人の自由意思が全くないものでなく、神の呼びかけに対する人間の応答を待って尊重してくださいます。だから神への応答を先延ばしにすることもできますが、それは人生における大きな損失です。救われて「聖徒」とされ聖霊を内にいただくことで、いかに大きな希望、栄光の富、絶大な神の力が与えられるかを体験しないで生きることは勿体ないです。ヘブル書の記者はモーセのことを「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」(11:26)と書いています。

教会は先週総会を終えて、いよいよ新年度に突入します。わたしたちは「神の国をつぐ者」とされたキリスト者です。新年度は一年かけてみんなで一字一句を考えて完成したビジョンに生かされて、祈り神を讃えて福音のために力を尽くしていきましょう。神様が共にいれば恐れがないどころか百人力です。