聖 書 ヘブル人への手紙11章1~6節11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
クリスチャンになるずっと以前に、わたしは自分の宗教を書かなければならない機会がありました。それは旅行でインドネシアのあるお寺の入り口で書かされたカードにあった宗教を尋ねる欄でした。国内で暮らすときには何も信仰を持たなくても宗教を問われることは皆無でしたが、ひとたび海外に出ると外国人のわたしは「オマエハ ナニヲ シンジルカ」と質問されてとても面喰いました。
1.祈りに報いてくださる神
辞書で「信仰」と引いたら、証拠抜きで確信を持つこととありました。今日の聖句「望んでいる事がらを確信する…」というのは、まさしく現実にきっと起きると予想もできずに証拠が全くない時に、すでに成就したかのように確信を持つことです。しかし祈ってきたのに現実は一向に変化が無い状態で、なおも信じて必ず成ると確信を保ち続けることは、かなり忍耐を要します。何の兆候もないのにひたすら神のみわざを信じることは無謀にも思えます。ですがヘブル10:35には「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。…」とあります。放棄するは新改訳では「投げ捨てる」で、不要になったごみを投げ捨てるという意味です。人は長年祈ってきたこともついには、無理だろうとあきらめて働きかけることもやめて、不用品を始末するように心からの願いを投げ捨てて、祈ることさえやめてしまうことがあります。けれど35節で神様は「その確信には大きな報いが伴っているのである。」と約束しておられます。
その日イエス様の手の中にあったのは五つのパンと二匹の魚だけでした。男だけでも五千人はいた群集を前にして、弟子たちが「こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」と言ったように、わたしたちもときどきに無気力で不信仰になります。しかしイエス様は今手にあるものに感謝して祈り天を仰いだ時に、神様は驚くようなみわざを表されました。36節には「約束のものを受けるため」に必要なものが二つあります。まず「神の御旨を行い続ける」という前向きな行動力と「どこまでも忍耐して待つ」という控え目な自制心という二面性です。どちらが欠けてもいけません。
辞書で「信仰」と引いたら、証拠抜きで確信を持つこととありました。今日の聖句「望んでいる事がらを確信する…」というのは、まさしく現実にきっと起きると予想もできずに証拠が全くない時に、すでに成就したかのように確信を持つことです。しかし祈ってきたのに現実は一向に変化が無い状態で、なおも信じて必ず成ると確信を保ち続けることは、かなり忍耐を要します。何の兆候もないのにひたすら神のみわざを信じることは無謀にも思えます。ですがヘブル10:35には「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。…」とあります。放棄するは新改訳では「投げ捨てる」で、不要になったごみを投げ捨てるという意味です。人は長年祈ってきたこともついには、無理だろうとあきらめて働きかけることもやめて、不用品を始末するように心からの願いを投げ捨てて、祈ることさえやめてしまうことがあります。けれど35節で神様は「その確信には大きな報いが伴っているのである。」と約束しておられます。
その日イエス様の手の中にあったのは五つのパンと二匹の魚だけでした。男だけでも五千人はいた群集を前にして、弟子たちが「こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」と言ったように、わたしたちもときどきに無気力で不信仰になります。しかしイエス様は今手にあるものに感謝して祈り天を仰いだ時に、神様は驚くようなみわざを表されました。36節には「約束のものを受けるため」に必要なものが二つあります。まず「神の御旨を行い続ける」という前向きな行動力と「どこまでも忍耐して待つ」という控え目な自制心という二面性です。どちらが欠けてもいけません。
2.信仰によって歩く人
信仰とは、目に見えないものを見えなくても存在すると認めて確信することです。神様は目に見えないからいないと決めて信じようとしない人がいます。信仰とは自分の知識や経験を越えた存在を信じて、自己を神様に全く委ねることから始まりますから、これではいたちごっこです。「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」(ローマ8:24)と聖書は言います。だから「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いている…」のであり(Ⅱコリント5:7)、さらに「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」のです(同4:18)。
神学校の説教学の授業で、そのとき体験したことを例話にしました。わたしは一人の盲人女性が、道の向こうから黄色い点字ブロックを白杖でたどりながら迷うことなく、凛として歩いて来るのを見て、キリスト者は白杖を聖書に持ち替えて信仰を頼みとして、盲人が音に鋭敏な聴覚を持つように、聖霊のささやきを信仰の耳で聞き取って祈りながら歩みたいと思いました。
信仰とは、目に見えないものを見えなくても存在すると認めて確信することです。神様は目に見えないからいないと決めて信じようとしない人がいます。信仰とは自分の知識や経験を越えた存在を信じて、自己を神様に全く委ねることから始まりますから、これではいたちごっこです。「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」(ローマ8:24)と聖書は言います。だから「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いている…」のであり(Ⅱコリント5:7)、さらに「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」のです(同4:18)。
神学校の説教学の授業で、そのとき体験したことを例話にしました。わたしは一人の盲人女性が、道の向こうから黄色い点字ブロックを白杖でたどりながら迷うことなく、凛として歩いて来るのを見て、キリスト者は白杖を聖書に持ち替えて信仰を頼みとして、盲人が音に鋭敏な聴覚を持つように、聖霊のささやきを信仰の耳で聞き取って祈りながら歩みたいと思いました。
3.信仰者を喜ぶ神
神様は神の子どもたちが良い行いに励むことを喜ばれますが、それ以上に神様が喜んでくださるのは、わたしたちが信仰に満たされることです(6)。エノクはその良いお手本でした(5)。
一方でイエス様は度重なる弟子たちの不信仰を嘆かれました。あるときイエス様は異邦人の女が娘の病をいやしてくださいとすがった時に、わざとすげなく退けました。しかし女はあきらめることなく機知にとんだ返事を返したことで、イエス様は「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と彼女を手放しで喜びその願いをかなえられました。
信仰を他のどんな賜物より神様は喜ばれます。なぜなら「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(11:6)ように、神様を信じる者にその報いを与えることで、はじめて栄光を現されるのです。
神様は神の子どもたちが良い行いに励むことを喜ばれますが、それ以上に神様が喜んでくださるのは、わたしたちが信仰に満たされることです(6)。エノクはその良いお手本でした(5)。
一方でイエス様は度重なる弟子たちの不信仰を嘆かれました。あるときイエス様は異邦人の女が娘の病をいやしてくださいとすがった時に、わざとすげなく退けました。しかし女はあきらめることなく機知にとんだ返事を返したことで、イエス様は「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と彼女を手放しで喜びその願いをかなえられました。
信仰を他のどんな賜物より神様は喜ばれます。なぜなら「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(11:6)ように、神様を信じる者にその報いを与えることで、はじめて栄光を現されるのです。