聖  書:ヨハネによる福音書15章1~11節
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

今朝は今年度、教会に与えられた新約聖書からの御言である。ブドウは40年ほど前までは世界一の収穫量の果物であったが、現在はバナナ、柑橘類に次いで3番目になる。歴史の古さ、栽培地域の広さから言うと一番である。イスラエルでも古くから重要な果物である。聖書にもブドウの記述は多い。

Ⅰ.旧約聖書:ブドウ園の主人
イザヤ書5章はブドウ園の歌と呼ばれる。神様とイスラエルの民の関係が良く解る。ブドウ園の主人は神様、植えられたブドウはイスラエルの民である。主人は良いブドウができるように、土地を耕し、良い木を植え、垣根もやぐらも建て、収穫後の酒ぶねも用意した。最善の準備をし、後は収穫を待つばかりだった。実ったのは酸い野ブドウであり、主人は失望し、怒り、裁いた。神様はイスラエルの民を選ばれ、ご自分の栄光を表わそうと期待された。愛を持って導かれたにも関わらず、イスラエルの民は背き続け、悪い実を結んだ。神様は人に対して、良い事を行い、祝福を得るようにと準備された。その通り行えないのは人間の性質そのものである。人間の側の義を求めた旧約聖書の救いの限界である。

Ⅱ.新約聖書:農夫である神様
ヨハネ15章は、イエス様が十字架にかかられる前夜、弟子たちに語られている。新しい神様との関わり、新しい恵みの約束であった。ブドウの木が出てくるが、まず農夫である神様に目を向ける。旧約とは違い、今度は、ブドウを植えたのではなく、台となる木に接木した。台木はイエス様、持ってこられた枝は私たちである。イザヤ書ではブドウの枝の手入れが出てこないが、豊かに実を結ばせるために剪定をした。むやみに剪定しても花が咲かない、実がならない、枯れることも起こる。専門の知識がなければできない。農夫には、やがてこのように育つという予見があるからできる。剪定は痛みが伴うが、良い実が豊かに結ぶために必要なことである。

Ⅲ.新約聖書:ブドウの木であるイエス様
農夫である神様は、ブドウの木であるイエス様に私たちを結び合わせてくださる。幹から枝に水や養分が運ばれてきて、葉を繁らせ、花が咲き、やがて実が結ばれる。すぐさま実がなるのではない、時至って、実が実る。台木であるイエス様の素晴らしい性質を受け継いで、甘く香る良いブドウの実が結ばれる。枝と幹との間に命のつながりがある。私たちは旧約聖書の時代のように自分で努力して実を結べと言われてもできない。イエス様と一つとされ、命をいただき、実を結ぶものとされる。私たちの台木となるためにイエス様は十字架にかかられ、命を捨ててくださった。枝である私たちは木につながらず、そのままであるなら枯れてしまう。私たちとつながるためにイエス様は十字架にかかられ、全ての人が神様の命を得、素晴らしい実を結ぶよう道を開かれた。

4節以降のつながるという言葉はとどまると訳す方が原語に近い。イエス様の元を離れないことがイエス様につながっていることである。豊かな神様の実を結ぶことができる(ガラテヤ5:22・23)。神様の愛の内にとどまるならば、神様の喜びが私たちに満ちあふれる。