聖 書 創世記2章15~17節、3章1~10節
2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

春の穏やかな季節が過ぎ行き、行楽地が賑わうGWが始まろうとしている日本でわたしたちは例年とは異なる緊迫したきな臭いニュースに、日々耳を疑い今や世界は一触即発の危機にさらされています。原因は隣国北朝鮮のミサイル発射攻撃です。暴君の極悪非道なふるまいに、キリスト者は人間に入り込んだ罪のもたらす害毒が、いかに甚大であるかに心を痛めます。では人類最初の罪とはどこから始まったのでしょう。それを創世記の2~3章から確認します。

神様は無から有を「光あれ」とことばだけで、この世界とそこに満ちるすべてのものをお造りになり、人間が生きるにふさわしい環境をすべて整えた上で、ご自身と相対して人格的交わりを持つ尊い存在として、人を造りエデンの園に置かれます。

1.神の「ただ一つの」禁令とは…
そして神様は最初の人アダムに、園にあるどの木からも自由に食べて良いと寛大な心を示されます。神のただ一つの禁令は「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創2:17)でした。このとき人に課せられた制約はたったひとつでしたが、そこには犯し難い創造主である神様と被造物に過ぎない人間との明確な一線がありました。
ここに二つの疑問が生じます。実はこの疑問の答えにこそ、神様と人間の関係性において、人間が知るべき重要な基準があります。神が命じた「ただ一つの」禁令に対して起こってくる二つの疑問とは…
<なぜ、神様は一つだけ食べていけない木を設けたのか?>
人は神様によって造られた被造物です。ですからただ一つでも神様の命令には必ず従うという制限がある中で自由を得ます。神の掟を無視した身勝手な行動はブレーキの壊れた車のようです。それは本当の自由ではありません。
<なぜ、「善悪を知る木」から取って食べてはいけないのか?>
善悪の基準は神様が決めるもので、人は勝手に判断してはなりません。そして「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創2:17新改訳)からです。人はそれを食べると、自分を神としてまことの神様と離れていのちの主を否定するので死に至ります

2.罪の巧みな誘惑
 ついに悪魔の化身である蛇は、神の命令を直接は聞いていない女からそそのかし、女は善悪を知る木の実を食べるという、取り返しのつかない罪をおかす。
神のことばをゆがめる(創3:1)
神様は善悪を知る木以外はどの木からでも自由に食べて良いと言われたにのに、狡猾な蛇(ローマ16:20)は、「園にあるどの木からも取って食べるな」と言い換える。
神のことばを疑わせる(創3:1)
「ほんとうに神が言われたのですか」と疑問を投げることは否定よりむしろ悪質。
神のことばを否定する(創3:3新改訳)
「あなたがたは決して死にません。」と蛇は断定することで神のことばを否定した。
神の愛と真実から引き離す(創3:1)
 以上の順に従って、サタンは神様の愛を疑わせ人の幸せを切に願う神様の真実から、わたしたちを引き離して巧みに罪をおかすように誘導した。

3.罪の悲惨な結末
 罪の大小を問わずして、どんな罪も悲惨な結末を迎え、人はそこから自分では罪を解決することも、償うこともできません。神様のさばきを逃れることはできません。
罪は他の人を汚す (創3:6)
「また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」罪は連帯性を求めて共に罪を犯すことで、人に罪悪感という心の重荷を軽減させようと騙す。
罪は欲をかきたて死に至る(創3:6)
「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」食欲、物欲、知的好奇心など、本来正当な人間の欲求は罪によって自己顕示欲に変質する。
罪は恥を負わせそれを隠す(創3:10)
「わたしは裸だったので、恐れて身を隠した」罪は恥を負わせ隠そうとしますが、人は罪を隠すのでなく神様に告白して、本来十字架によって赦していただくべきです(Ⅰヨハネ1:9)。