聖 書:イザヤ書6章1~8節
6:1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。 6:2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
6:3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
6:4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
 5月も半ばを迎えたが、2017年度教団に与えられた聖句から御旨を伺う。イザヤは南王国ユダで、ウジヤからヒゼキヤまで4代の王に長く仕えた。ウジヤは軍事的、経済的、宗教的に優れたが、高ぶりから神様に打たれた。有力なウジヤの死はユダの危機であった。

Ⅰ.聖なる臨在に触れたイザヤ
5章までを読んでも、イザヤは既に預言者であった。ウジヤの死で国は揺らぎ、若いイザヤも自信を持ち得ない状態にあった。この時、神様はイザヤに目を止められていた。イザヤは神様の幻を見せられた。直接に神様の御顔、御姿ではなくはるかに神様を仰いだ。イザヤが目の前に見たのは衣のすそであった。やがて700年後、イエス様の衣のすそに触れて、長血の女がすぐさま癒された。衣のすそにさえ大きな意味がある。空には天的存在のセラピムが飛びかけり、賛美するのをイザヤは見た。セラピムは燃える者、ケルビムは輝く者の意である。セラピムは翼の2つで顔を覆い、翼の2つで足を覆った。これは謙遜、謙りの姿で、礼拝と祈りの姿である。セラピムが残りの2つの翼で飛ぶのは奉仕の姿である。バックストン師はこの箇所の説教で、礼拝と祈りがあって、その後に奉仕があると言われる。イザヤはこれらの聖なる臨在に圧倒された。

Ⅱ.聖なる火に触れたイザヤ
天的な異象を見、さらに神殿が震い動き、イザヤは倒れ伏しただろう。5節「わたしは滅びるばかりだ。」は、新改訳では「ああ、私は、もうだめだ。」でありこの訳が原意により近い。聖なる神様の前に「汚れたくちびるの者」であるからと感じた。くちびるから出る言葉ほど御しがたいものはない(ヤコブ3:2)。口から出るものは、心の中から出て人を汚す(マタイ15:18)ので、汚れた行いは内心の汚れから始まっている。くちびるで語り、言葉に仕える預言者イザヤにとって、くちびるが汚れているとは、根本的な問題である。イザヤは自己の姿に絶望し、無価値であるとまで言う。セラピムによって祭壇の燃える炭がイザヤの口に触れた。祭壇の炭は全焼の犠牲を焼く聖なる火である。イザヤのくちびるが火によって潔められたことは、内心も全身も潔められたことになる。

Ⅲ.聖なる心に触れたイザヤ
ウジヤ王の死という、外的な危機があり、自分の汚れに、内的に絶望したイザヤに、神様はセラピムを遣わし、燃える炭をもって潔くされた。それでもなお、立ち上がれないイザヤに神様は、8節「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と声をかけられた。聖なる臨在に触れ、聖なる火に触れたイザヤは神様によって変えられた。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」とイザヤは応答した。自分は無価値である、自分に絶望したイザヤの僕としての出発である。自分には価値がある、自分こそ相応しいという所からではない。それでもなお、神様に応答できたのは聖霊の火の体験であった。この後、イザヤは長きにわたって預言者として仕える。イザヤに神様は、ユダの背信と亡国、回復、さらにメシアの出現から新天新地までを見せられていく。

イザヤの生涯を支え、貫いていったものは、神様の聖なる臨在、神様の聖なる火、神様の聖なる心に触れたことによった。神様が自分を愛し、選ばれたことへの感謝、自分を立て、導かれることへの確信による。