聖  書:イザヤ書30章15~22節
30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
30:16 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
30:17 ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。
30:18 それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
30:20 たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
30:22 その時、あなたがたはしろがねをおおった刻んだ像と、こがねを張った鋳た像とを汚し、これをきたない物のようにまき散らして、これに「去れ」と言う。
  日々の生活の中で心配ではなく安心、不安ではなく平安は何物にも代えられないものである。イザヤの時代、ユダにはアッシリヤ、エジプトの大国の狭間にあり、いつも侵略されるという恐怖があった。30章ではアッシリヤと対抗するためにエジプトと手を組もうとした(2・3節)。イザヤ書の中心テーマの一つは、何に頼るのかという信仰のチャレンジである。
Ⅰ.神様から離れさせるもの
20節には「悩みのパン、苦しみの水」とある。パンや水という日常生活の只中の苦難や試練である。普段の生活だからこそ、逃げようのない苦難である。順風満帆の時の信仰ではなく、試練の中の信仰こそ本質が問われる。悩み、苦しみによって神様から離れないように、互いに祈り、励まし合おう。22節には「刻んだ像、鋳た像」が出てくる。信仰者は誰もが解る偶像を拝まない。気付かないで偶像になっているものがないかは心しよう。どんなに素晴らしいものでも、どんなに大切なものであっても神様以上のものがあってはならない。16節には「馬に乗って…とんで行こう。」という言葉がある。敵に敗れて逃げることを指している。負けるという敗北主義から出ている。神の民イスラエルの信仰は何処にあるのか。神様に信頼しない不信仰は、神様から私たちを引き離す。
Ⅱ.神様に近づけさせるもの
15節には「立ち返って… 落ち着いて… 穏やかにして信頼している」とある。神様の前に心静める時を持つ。こんな時にできないという時にこそ神様への静まりが必要である。へブル4章16節には「時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこう」とある。19節には「呼ばわる声…」とある。神様へ心静めるだけではない、次に神様に呼ばわるのである。呼ばわる声に応じてとあるように二度、三度それ以上でも大声で求めよう(マタイ15:21以下参照)。22節には偶像に「去れ」と宣告している。神ならぬ神に対して、関わらないという宣言である。神様以外のもので満たされてしまいやすいこの時代に、この世に生きながら、神様のみに生きるという決意を私たちも持とう。
Ⅲ. 神様の備えられるもの
15節には「救われ、…力を得る。」とある。神様は困難・試練から救い出し、力弱き者に力を与えてくださる。18節には「恵みを施される。…あわれまれる。公平… さいわい…」とある。神様は恵みに富み、あわれみ豊かである。公平に分かち与えられることは大きな幸いである。19節には「直ちに答えられる。」とある。神様は決して行動の遅い御方ではないが、時を大切にされている。時に叶わないのであれば留められる。20節には「あなたの目はあなたの師を見る。」とある。21節には「『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」とある。神様の姿を見る。神様の声を聞く。これは羊を守り、導く牧者としての姿である。私たちの牧者は、私たちのために命を捨てられたイエス様である。
ユダは他国が侵略してくるという大きな恐れの中にあり、神様から離れようとしていた。神様は立ち返れと彼らを引き戻そうとされ、神様の元には救いがあり、導きがあり、祝福がある。解っている事と、実行している事とは違う。何時もこの不変の原則に生きよう。